真説 卓球おもしろ物語8【発展する日本の卓球〜協会分裂の原因はボールメーカーだった〜】
〈その8〉卓球王国2021年2月号掲載
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『マンガで読む 卓球ものがたり』(卓球王国)で原作を担当した伊藤条太氏が、おもしろ真面目に卓球の歴史をご紹介。今回は、戦前の日本の卓球事情。卓球団体の分裂騒ぎに、全日本の第1回大会開催、「国際式」の導入など、大きな転換期を迎えていた。
●写真:「写真で見る日本卓球史」(財)日本卓球協会(平成15年)
協会分裂の原因はボールメーカーだった
大正10(1921)年、大阪で日本初の全国組織「大日本卓球協会」が生まれた。これで日本の卓球界がまとまったかと思うとそうではなく、ここから大分裂騒ぎが始まる。
まず、大正13年に関西支部が独立して「大日本卓球連盟」を作ってしまう。さらに大正15年には関東支部の配下にあった東京支部が独立して「全国卓球連盟」、昭和2年には関東支部が「帝国卓球協会」を立ちあげる。この他にもこれらの団体がさらに分裂・合併を繰り返し、京都に至ってはどの全国組織にも属さない「京都卓球協会」や「京都卓球連盟」を作ったりして、わかっているだけで延べ9団体が存在した。
当初は団体によってルールも異なっていた。たとえば「大日本卓球協会」では、ミスをした方に点を入れる「失点法」で数えていた。10点制だったから、先に10点になった方が負けというわけだ。当時の卓球が、どちらかといえば攻撃ではなくミスによって決まる傾向にあったことが推測される。これに対して「大日本卓球連盟」では現在と同じ「得点法」を採用していたという。
こういう状況でそれぞれの団体が機関誌を発行し、全国大会を開いていたため、選手はどの大会に出たらよいか迷う状態だった。藤井基男著『卓球 知識の泉』(2003年、卓球王国)には、誰がどの団体の優勝者なのかはわからないが、当時の優勝者が次のように書かれている。
昭和3年 幸田栄三郎、秋元理三(後に川上姓)、
田中喜代治
昭和4年 幸田栄三郎、中島正郎、山田孝次郎、
田中喜代治
昭和5年 中島正郎、村林紀八郎、山田孝次郎