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伝説のプレーヤーたち 日本女子初の世界チャンピオン 大川とみ 

The Legends 第1回 大川とみ(1956年世界チャンピオン)前編

卓球王国2012年7月号掲載

1950〜60年代にかけて、世界選手権の上位を独占した「卓球ニッポン」。
世界に挑んだ選手たちは、自由な発想にあふれ、強烈な個性の光を放っていた。
伝説の球人たちの真実の姿に迫る「 The Legends」。
第1回は日本女子初の世界チャンピオン、大川とみ。
50余年の時を超えて、恩師と交わした固い絆と、驚くべきプレースタイルが甦る。

Text by

柳澤太朗Taro Yanagisawa

●おおかわ とみ
1932年2月26日うまれ、茨城県出身。
15歳を卓球をはじめ水海道第二高三年で関東大会2位。高校卒業後、会計検査院に就職。53年の第二回アジア選手権で初の日本代表となり、56年世界選手権東京大会の女子シングルスで日本選手として初優勝。57年ストックホルム大会、61年北京大会の女子団体と合わせ、世界選手権で3個の金メダルを獲得した

  その伝説の選手は、今も毎日のようにラケットを握る。
 
 現役時代、世界の頂点を極めながら、「バックハンドがもっと振れるようになりたい」という思いを抱いたままラケットを置いた。
 「未完成のままで、やりたいことがいっぱいあったのに引退してしまった。それが最近できるようになってきたんです。だから今、私は幸せなんですよ」
 テレビでは世界選手権やワールドツアーを欠かさず観戦し、課題練習ではチキータにも取り組む。「かなり振れるようになってきたけどね。でも、次へのつながりがまだダメ」と笑う。
 
 今年で80歳、傘寿(さんじゅ)を迎えた大川(現姓・岡田)とみ。日本に空前の卓球ブームを巻き起こした、1956年世界選手権東京大会の女子シングルスチャンピオン。
 
 淀(よど)みのない語り口からあふれ出す言葉は蜜のように濃厚で、穏やか眼差しの奥には不屈の輝きがある。街に桜が咲き誇る4月初旬、伝説の球人はまるで昨日のことのように、朗らかに語った。

どうやったら勝てるのかをひたすら突き詰めていった。
私の卓球にモデルはいないし、先駆者もいない

 世界選手権女子シングルスの優勝杯、ガイスト・カップを初めて日本にもたらした大川とみ。右シェークハンド、両面一枚ラバーのオールラウンドプレーヤー。

 そのプレースタイルを今に伝える、1956年世界選手権東京大会の貴重な記録映画が残されている。渡辺(現姓:加藤)妃生子(専修大)との女子シングルス決勝のラリーは、3本ほどしか収録されていない。

 第5ゲーム20-16のチャンピオンシップポイント。バックハンドのロングサービスを渡辺のバックサイドに出した大川、大きく回り込みレシーブ強打で攻めた渡辺。次の瞬間、大川は前陣を保ったまま、ボールのライジングをとらえてバックストレートへ3球目フォア強打。鮮やかに打ち抜いて栄冠を手にした。

 何度見てもの鳥肌の立つ一球だ。

 それはまるで、現役の男子世界チャンピオン、張継科(チャン・ジィカ)の3球目カウンタードライブ。現在とは用具が違う、ボールのスピードも違う。しかし、打球点の早さは全く遜色(そんしょく)ない。

 しかも、この打球点の早いフォアの連続攻撃に加え、大川は相手の攻撃をしのぎ、反撃に転じるカットも駆使した。当時の日本代表チームの合宿に、大川は欧州のカット主戦型を想定したトレーナーとして招集されていたのだ。

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