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【セカンドキャリア】 平亮太「私は多くの人に育ててもらったので、これからは人を育てていきたい」

[元世界代表/正智深谷高監督]

卓球王国2024年4月号掲載「セカンドキャリア。選手たちのその後」vol.6の原文
平亮太はかつて日本男子で最年少の世界代表として、日の丸をつけた有望選手だった。 しかし、大学で目立った成績を残せず、その後、実業団、プロ選手としての道を歩んだ。
彼がセカンドキャリアとして選んだのは高校の保健体育の教師だった。現在、正智深谷高の卓球部監督として選手たちを率い、保健体育の教師としてワクワクした気持ちで生徒たちと接している。

[たいら・りょうた]
1971年9月7日生まれ、鹿児島県出身。熊谷商高、埼工大深谷高時代に1987~1989年のインターハイ団体3連勝、1988年シングルス優勝、全日本ジュニア優勝。1989年世界選手権日本代表。早稲田大からびわこ銀行を経て、プロ選手(健勝苑)に転向後、2004年に正智深谷高の教師として現在に至る。妻は世界代表の樋浦令子、長女は全日本バンビ優勝の鈴莉空(りりあ)

奄美大島で生まれ、よくひとりで練習をしていた。「これしか情報がない!」という部分での強みだったのかもしれません 

生まれは鹿児島県の奄美大島。5人兄姉の末っ子で、父が教師だったので転勤が多かった。平亮太が生まれてすぐに喜界島に引っ越し、小学2年で本島の僻地の学校に転校。全校生徒は12人でそのうち平を含めた兄姉が4人だった。

♦♦♦

●ーたしか生まれは鹿児島の奄美大島ですよね?

 奄美大島本島で生まれました。父が教師をしていたので転勤が多く、生まれてすぐに喜界島に引っ越し、その島に小学1年までいて、また転勤で本島に戻ってきました。戻ってきた先は、僻地の学校で小中学校の全校生徒が12人しかいませんでした。そこに小学2年から5年までいました。その12人のうち、私の兄姉が4人でした(笑)。同級生はいなし、複式学級で姉と同じ教室で、担任が父親でした(笑)。

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