呉光憲の申裕斌への手紙「申裕斌だったらできるよ。申裕斌らしくプレーすればいいよ」。彼はパリに爪痕を残し代表チームを去った
【People】故郷の青森の卓球界に恩返しをしたい 神山昌太郎
[神山TTC卓球場代表]
[かみやま・しょうたろう] 1974年12月31日生まれ、青森県青森市出身。小学5年から卓球を始める。青森商業高、専修大を経て、地元青森の日専連に就職し、全日本軟式選手権で腕を振るう。2011年3月の東日本大震災を契機に「地域の役に立ちたい」と脱サラし、青森市に『神山TTC卓球場』を開業。地域の子どもたちを中心に指導を行っている
Text by
中川 学Manabu Nakagawa
卓球場を始めたきっかけは2011年3月の東日本大震災だった
卓球王国と言われる青森で、少年時代に卓球に明け暮れた神山昌太郎。大学卒業後に青森に戻ると、東日本大震災を機に卓球場を始めた。 神山が卓球と出合ったのは小学5年生の時。クラスメートが休み時間に教室の給食台を使って卓球をしていて、その仲間に入れてもらったのがきっかけだった。 「野球をしていましたが、卓球のほうが楽しくなって、クラスメートが通っていた卓球クラブに入りました」(神山) 近所の倉庫の2階に作られた『矢野道場』は大人のクラブチームだったが、そこで卓球を教わり、青森北中でも卓球部に入部した。中学時代にシングルスでは目立つ成績は残せなかったが、団体戦で東北大会に出場して、全中まであと1勝のところまで行った。 高校はインターハイでも優勝している名門の青森商業高に進んだ。当時の監督は元世界チャンピオンの河野満。河野からの指導により神山はメキメキと力をつけて、高校1年の秋に行われた全日本ジュニア予選で優勝した。「河野先生のもとでラケットを振っていた高校時代は、自分が強くなっていることが実感できました。指導は厳しかったけれど毎日の練習が楽しかった」と神山は懐かしむ。 高校時代は全日本選手権のジュニアと一般で県代表になったが、インターハイには縁がなく、団体戦の出場はかなわなかった。最後の夏にシングルスの代表になったが、本戦では「緊張して何もできずに終わってしまいました」と初戦負け。 大学は「伸びしろがあるから」という河野からの後押しもあり、河野の母校でもある専修大に進学した。だが、「2年までは一生懸命頑張っていましたが、留年を機に腐ってしまった。誰のせいでもなく、すべて自分のせいです」と後悔を残した。 大学卒業後は青森に戻り、全日本軟式選手権で活躍していた日専連に就職。軟式卓球をしたのは初めてだったが、1年目に全国2位、3年目に全国3位という成績を残した。しかし、4年目に軟式が廃止になると活動の範囲が狭まり、県内のNHK杯に出場しながら、母校の青森商業高の女子コーチとして指導を行うようになる。 「自慢になりませんが、土日はぐうたらな生活をしていました。それが母校で指導するようになってから、生徒たちの頑張る姿にやりがいを感じて、生活が激変しました」(神山)
そんな神山が会社を退職し、卓球場を始めたきっかけは2011年3月の東日本大震災だった。 「会社員時代に取り引き先の商店街の若い店主たちの集まりがあり、被害を受けた現地に行って、炊き出しなどで復興の手助けをしていることを聞きました。自分も何か人の役に立つことができないかと考えるようになり、長く携わってきた卓球でならば恩返しができるのではないかと思うようになりました」(神山) そして、震災から1年半後の2012年8月に地元青森市で卓球場をスタート。「生徒0人からのスタートでした」と笑うが、コロナ前は毎日50名の子どもたちが練習に来るまでに成長した。コロナで来られなかった子どもたちも徐々に戻ってきて、卓球場も以前のような活気を取り戻している。 「卓球のお陰で、たくさんの方に支えられて今の自分がある。これからも故郷の青森の卓球界へ恩返しをしていきたい」と言う神山は日本一を目指している。 青森の冬は寒い。だが、神山の卓球場には真冬の寒さをものともせず、懸命にボールを追う子どもたちの姿がある。そして、そのかたわらには、熱心に指導する神山の姿がある。