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[元日本代表・松村優美]乳がんを患い、死と向き合った日々。「卓球をやれる喜びを感じます。卓球に生かされた命です」

卓球王国2024年8月号掲載「Another Story」原文インタビュー

かつて日本代表として活躍した「青池優美」は、20年以上経ってから「松村優美」として全日本マスターズの40代の部で2回優勝した。
目の前の彼女から「元日本代表」のオーラは感じない。少しふっくらとして、快活な話しぶりは、果樹園の直売店の仕事のせいなのか。それとも、二度の大病を乗り越え、死と向き合った強さなのか。これは「卓球に生かされた命」と語る女性のストーリーだ。

Interview by

今野昇Noboru Konno

今年(2024年)3月の東京選手権では50代の部で優勝した松村優美

●まつむら・ゆみ
1972年8月20日生まれ、神奈川県出身。旧姓・青池。御所見中の時に全国中学校大会で団体優勝、シングルスは2位。白鵬女子高時代にインターハイ団体3連覇に貢献、ダブルス優勝、シングルス3位。富士短大、武田薬品湘南に進み、1991年世界選手権千葉大会、95年天津大会に日本代表として出場。結婚後、乳がんを患い、その後、全日本マスターズ40代の部でで2回優勝。2024年東京選手権50代の部で優勝

全中2位、インターハイ3位。91、95年の世界選手権日本代表。26歳でラケットを置いた青池優美

 会うと穏やかで優しい笑顔を見せる松村優美。40代より上の卓球人にとっては「青池優美」と言えば、記憶に留めている人も多いだろう。かつてインターハイで活躍、その後、日の丸をつけて戦った日本代表のカットマンだ。
山梨県笛吹市の国道411号沿いの松村農園で彼女は迎えてくれた。神奈川県から嫁ぎ、普段は果樹園の仕事をしながら、会社(水ingAM株式会社)でのパート勤めもしている。本格的な夏の暑さを迎える時期からは収穫をしながら直売所に立ち、夜中まで働くために、卓球をする時間はほとんどなくなる。でも松村優美にとって卓球はかけがえのないものだ。

●ー松村さんと卓球の出合いは?

松村(旧姓青池) 神奈川の藤沢市出身で、母親が卓球をしていました。そこのチームの監督が河合雅世さん(元日本代表)のお母さん(美千世)でした。河合さんを見て、かっこいいなとか、強いなと憧れを持って、それで卓球を始めたのが小学4年の頃ですね。

 小学5年の時に、全国ホープス大会(団体戦)ができて、子どもたちのチームを作ることになり、河合先生が監督で、河合雅世さんと私、下の学年に平井由規子、福田正美(ともに後にインターハイ優勝メンバー)がいました。みんなお母さんが同じチームで卓球をやっていたんです。

 そこで、みんなでチームを組んでやることになって、まず最初は週1回の練習だった。団体戦を組むことになって、みんな、はじめはシェークの攻撃選手だったんですが、いろんな戦型を作ろうということで、私はちょっと大人しい、もっさりした性格だったのでカットマンをすることになりました(笑)。福田はペン表、平井は異質攻撃型と。この4人は近所で、みんなが白鵬女子に行きました。

 小学5年で河合クラブとして初めて全国ホープスの団体戦に出ましたが、週1、2の練習ですから、予選リーグで敗退。その時に河合先生が、「どうだ、悔しいだろ」という話をしました。そこからみんなで全国優勝を目指そうと、急に練習を毎日やることになりました。最初は地元の御所見(ごしょみ)市民センターで卓球をやってたんですけど、その後に河合先生と細矢順子さん(全日本ジュニアチャンピオン)のお父さんの細矢渡先生、そして森藤和則先生と3人の指導を受けて、森藤先生の家の敷地の中にあった牛小屋を改造して練習、急に環境が変わった(笑)。

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