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【People】増田浩 定年後にクラブチームを作り、子どもたちを教える元日本リーガー

[静岡県浜松市・MASUTAKU. TTC]

卓球王国2024年8月号掲載

 ヤマハ時代に日本リーグで活躍、全日本選手権でも2度ランク入りした増田浩。定年退職後にクラブチームを作り、子どもたちを教えている。

Text by
今野昇Noboru Konno

[ますだ・ひろし]
1962年3月21日、長崎県出身。長崎・鎮西学院高から近畿大へ進み、卒業後に実業団チームの日本楽器(現・ヤマハ)で活躍。公認スポーツ指導者・コーチ3。日本卓球協会・元HNTコーチ、静岡県の国体監督を歴任。現在、静岡県浜松市のMASUTAKU. TTCで子どもたちを指導している

1992年の全日本選手権でランク入りした増田浩

中学の部活動が地域スポーツに移行していく中で、子どもたちを受け入れ、もっと規模を大きくして大学を卒業した人の受け皿になるようなクラブを作りたい。それが増田浩の夢

 長崎県出身の増田浩は、鎮西学院高で全九州大会で2位だったが、インターハイでは1回戦負けだった。近畿大に進んだ後、関西学生新人戦で優勝し、4年時には当時開催されていた西日本学生選手権で三冠王となった。卒業後に、日本楽器(現・ヤマハ)に入社。

 当時、日本卓球協会はサドンデス合宿という体力テストと試合を繰り返し、日本代表を決める強化合宿を行っていたが、増田は抜群の身体能力で勝ち残ったこともあった。「20㎞走って、その後、20試合くらいやったこともある。信じられない合宿だった」と振り返る。

 元日本リーガーの増田浩は現在、62歳。

  1984年に入社した日本楽器。チームには小野誠治、内田雅則、笠原一也、五藤ひで男、今福護、三上雅也というそうそうたるメンバーが揃い、増田の出番は少なかった。29歳で初の全日本選手権のランク入り(ベスト16)というのは、かなりの遅咲きだ。33歳まで現役を続けたのちに監督を1年間務め、企業スポーツの曲がり角の時期に、名門チームは1995年に休部となった。

 しかし、休部後もヤマハの卓球場で「ヤマハクラブ」として地元の子どもたちを指導する活動を行っていた。このクラブから水谷隼(東京五輪混合ダブルス金メダリスト)や高岡諒太郎(リコー)などが育っていった。 

 増田はヤマハクラブで20数年間、子どもたちを指導してきた。60歳で定年を迎え、退職後に1年かけて静岡県浜松市内で卓球場が作れる物件を探した。音響機器メーカーの「ローランド」の寮が廃寮となったので、その寮の食堂を借りて、卓球台を2台置いて卓球スクール「MASUTAKU」を昨年オープンし、子どもたちを教えている。

 「ヤマハ時代に、世界、日本トップレベルのチームで卓球をし、監督を1年やらせてもらったことが、その後の子どもたちの指導をするキッカケになりました。トップレベルの選手たちと一緒に汗を流したことが一番の教科書。

 今は子どもたちと一緒に汗を流し、子どもたちのボールを受けて、そのボールを気持ちを込めて返すことが指導の基本。子どもたちが卓球を頑張り、大学生になった時、卓球をやりながら仕事のできる会社が少なくなってきた気がします。卓球選手が就職に苦労するのを見るのは辛いですね。

 卓球は少しずつメジャーなスポーツになっているのかもしれないけど、プロ選手としてやっていけるのはひと握り。子どもたちがいずれ大学を卒業した後に、その受け皿になるクラブチームを作りたい」

 社会人チームの「MASUTAKU」は、今年、全日本クラブ選手権(1部)に出場する。「練習後に行く居酒屋さんがスポンサーになってくれるし、応援にも来てくれる」と増田は嬉しそうに語る。卓球を起点にした活動で地元が盛り上がってくれることを願っている。

 これから中学の部活動が地域スポーツに移行していく中で、子どもたちを受け入れ、もっと規模を大きくして大学を卒業した人の受け皿になるようなクラブを作りたい。それが増田浩の夢なのだ。               (文中敬称略)

少数精鋭で指導する
MASUTAKU TTCは全日本クラブ選手権に出場する