呉光憲の申裕斌への手紙「申裕斌だったらできるよ。申裕斌らしくプレーすればいいよ」。彼はパリに爪痕を残し代表チームを去った
[卓球本悦楽主義4]文面から伝わる誠実で実直な人柄。図解入り技術書の先駆け
〈卓球専門書の愉しい読み方4〉卓球王国2004年4月号掲載
Text by
伊藤条太Jota Ito
卓球 其の本質と方法
■今 孝・著[ 昭和17年 旺文社]※現在は絶版
文面から伝わる誠実で実直な人柄。図解入り技術書の先駆け
球聖とうたわれた戦前の名選手、今孝(こん・たかし)の卓球技術書である。
今は大正六年(一九一七年)年、青森県に生まれた。名門青森商業から早稲田大学に進み、昭和十一年から昭和十五年にかけて全関東学生選手権と全日本学生選手権の両方で男子シングルス五連覇の偉業を達成(当時の大学は六年制)。この間に、全日本選手権でも単複二種目で連続優勝を遂げている。
昭和十三年(一九三八年)には、来日したハンガリーの元世界チャンピオンのサバドスらに対して、初戦こそ初めて経験するラバー貼りラケットによる回転球に敗れたものの、続く二戦、三戦と勝利し、日本の卓球が世界に通用することを証明した。
その圧倒的な強さとカット性オールラウンドプレーの美しさに加え、謙虚で誠実な人柄、180cm近い長身白皙(はくせき)の容貌もあいまって卓球界のカリスマ的尊敬を集めた。終戦直後の昭和二十一年(一九四六年)、肺炎のため二十九歳の若さで他界。熱望していた日本卓球の世界制覇を見ることはなかった。