【伝説のプレーヤーたち】史上最速の強打者・角田啓輔 前編「苦手な選手はいた。それが田中さんだった」
The Legends 第7回 角田啓輔(1956・57年世界選手権団体優勝)
時にチームを勢いに乗せ、時にピンチを救い、
2大会に渡って、日本男子チームの世界団体優勝に貢献した角田啓輔。
個人戦では不思議なほど、優勝杯には縁がなかった。
しかし、その名は伝説の強打者として、
同時代を生きた人々のに刻まれている。
太く短く燃えた卓球人生に迫る。
■Profile つのだ・けいすけ
1933年1月19日生まれ、宮城県出身。古川中1年時に卓球を始める。古川高を経て、アームストロングに3年間勤務した後、中央大へ進学。大学1年から3年まで、全日本選手権では3大会連続準優勝。世界選手権は56年東京大会、57年ストックホルム大会で日本男子の優勝に貢献。57年大会ではシングルスでもベスト8に入った。
Interview by
叩き込んだスマッシュが、はるか遠くの観客席にダイレクトで飛び込んだことがあるという。
当時としては長身の部類に入る、175㎝の堂々たる体格。それを目一杯使って、バッククロスに叩き込む渾身(こんしん)のスマッシュ、飛び散る汗。ついたあだ名は、なんと「散水車」。
「私の試合は審判が嫌がったんですよ。汗っかきなものだからね。回り込んで打つと、審判台まで汗が飛んでくるから」
当時を知る人が評して曰(いわ)く、「史上最速の強打者」。80歳の今もなお、厚みのある体躯(たいく)にパワーヒッターの面影を留める角田(つのだ)啓輔。1956年世界選手権東京大会、1957年世界選手権ストックホルム大会の男子団体優勝メンバー。荻村伊智朗や田中利明といったライバルたちと腕を競(きそ)い、技を磨き合った。
「卓球ニッポン」の黄金時代だった1950年代は、選手たちが強烈なライバル意識とともに、戦略と知略を戦わせた時代でもあった。用具の世界でも一枚ラバーの登場をきっかけに、スポンジにマジックラバー、裏ラバー、裏ソフトに表ソフトと新しい用具が次々に誕生し、秘術を尽くした攻防が繰り広げられた。