ロゴ画像
卓球王国PLUS > 読み物+ > 【伝説のプレーヤーたち】成田静司 前編「自分が出られないのは悔しかった。日の丸がまぶしかった」
記事見出し画像

【伝説のプレーヤーたち】成田静司 前編「自分が出られないのは悔しかった。日の丸がまぶしかった」

The Legends 第8回 成田静司(1957・58年全日本チャンピオン)

1950年代、世界の卓球界を日本の攻撃選手が席巻(せっけん)した時代。
「卓球ニッポン」と呼ばれた、この熱い時代に
燦然と輝いたひとりの男──成田静司。
彼のプレーを目撃した人たちは「天才・成田」と評した。
10ミリのラバーを駆使する攻撃の猛者(たちに対抗し、
ペンホルダーの一枚ラバーによるカットと攻撃で
全日本を2度制覇した。
荻村伊智朗、田中利明という大先輩にもまれながら
醸成させた類い稀な感覚とは何だったのか。

 

■Profile なりた・せいじ
1936(昭和11)年10月10日生まれ、青森県出身。黒石中、弘前高、日本大と進み、昭和29年度全日本選手権ジュニア優勝、昭和32年度・33年度全日本選手権優勝。1959年世界選手権ドルトムント大会に出場し、団体優勝を飾った

Text by

今野昇Noboru Konno

 

 1950年代、世界を席巻した日本の卓球。荻村伊智朗、田中利明という超攻撃的な卓球選手がひしめく中で、カットと攻撃を変幻自在に使い分け、全日本選手権を2年連続で制した男がいた──成田静司。 

 現在は青森県弘前市に住み、ラージボールの指導を行っている。

 もうすぐ5月だというのに、有名な弘前市の桜はまだ蕾(つぼみ)のままの肌寒い日に、成田静司を訪ねた。現役時代の後遺症か、ヘルニアで腰が痛むためにプレーはままならないと言うが、76歳の今も毎日のようにラケットを握り、ラージボールの指導に当たっている。

 昭和11年、戦争の足音が聞こえてくる時代に、成田静司は青森県弘前市から10キロほど離れた黒石(くろいし)町(現黒石市)に生まれた。終戦間近の昭和20年(1945年)の7月28日には黒石の上を米軍のB29爆撃機が飛んでいき、青森を空襲。30キロ離れた黒石からも青森市の空が赤く染まっているのが見えたと言う。

卓球王国PLUS有料会員になると続きをお読みいただけます

卓球王国PLUS有料会員は月額440円/税込。
登録すると「卓球王国PLUS」の記事をすべて閲覧できます。
退会はいつでも簡単にできます。