
百年の茅台酒が語る秘話④
〜松﨑キミ代と周恩来の友情〜
1963年世界選手権プラハ大会の女子シングルスで、
2回目の優勝を飾った後、現役を引退した松﨑キミ代。
胸の日の丸を外した後も、中国の周恩来総理との交流は続いた。
表裏のない深い友情を示す周総理の思いに応えるように、
松﨑は1本の茅台酒を、我が子のように大切に守り続けた。
文=李永亮 text by Nagasuke Li(アジア芸術文化協会 理事長)
翻訳=古屋順子 translation by Junko Furuya
写真提供=松﨑キミ代 photo courtesy of Kimiyo Matsuzaki
日本に戻る日に、周恩来総理は
「おめでたの時はすぐに知らせてください」と優しく論した
松﨑は1972年の冬にも北京を訪問した。このとき彼女はベテラン選手としてアジア・アフリカ・ラテンアメリカ卓球友好大会に参加したのだった。
周総理は各国の選手たちの陣中見舞いのため、多忙の合間を縫って選手の宿泊地を訪れた。日本チームの休憩室で松﨑と面会した周総理は、「松﨑さん、そろそろお子さんは?」と優しく尋ねた。どういうわけか、このとき彼女の口から「総理と同じで、子どもはいません」という言葉が飛び出した。このことで松﨑は後々まで悔やむことになる。しかし周総理は怒りもせず、鄧頴超夫人と一緒に彼女の身体を気遣った。国家体育運動委員会は治療のため、松﨑夫妻を2回続けて北京に招いたのである。林巧稚ら中国一流の婦人科の医師たちが、西洋医学から中国医学、上海から北京までにわたる専門家チームを作り、松﨑は生まれてから最も行き届いた治療とケアを受けた。