【伝説のプレーヤーたち】三木圭一 後編「国内でも国外でも、すべて自分が乗り越えるべき相手、という感じでした」
The Legends 第9回 三木圭一(1963年世界選手権団体準優勝)
その才能の開花は、まさに爆発的だ。
インターハイの2回戦で負けていた選手が、
大学1年で全日学チャンピオンとなり、
世界選手権代表、そして全日本選手権優勝。
鍛え抜かれた俊足と、低くて速いスマッシュで、
未知の強敵・中国に立ち向かい、
ひたすらに頂点へと駆けた男。
三木圭一の競技人生がここに甦る。
■Profile みき・けいいち
1942年3月29日生まれ、香川県出身。多度津中・多度津工業高を経て中央大に進み、大学1年から全日本学生2連覇。世界選手権は2大会に出場し、61年北京大会でシングルスベスト8、63年プラハ大会では団体と混合ダブルスで銀メダル、男子ダブルスで銅メダルを獲得した。昭和37年度全日本選手権では男子シングルス優勝を果たす
Interview by
今野昇、柳澤太朗Noboru Konno、Taro Yanagisawa
当時、男子団体では日本が優勝するのが当たり前。
決勝で中国に敗れたのはものすごいショックだった
「対中国というのは、誰の頭の中にもなかったんです。警戒していたのは、あくまでもハンガリーやチェコでした」
世界選手権北京大会に備えた、日本代表チームの合宿。日本は対ヨーロッパ、対カットの練習を繰り返し、秘密兵器であるドライブの威力に自信を深めていた。前回の59年ドルトムント大会で容国団(ロン・グオトゥアン/中国)が男子シングルスを制していても、開催国である中国を警戒する声は聞かれなかった。
1961年4月5日に開幕した北京大会。男子の日本代表6名のうち、団体メンバーの4名に選ばれたのは荻村伊智朗・星野展弥・村上輝夫・木村興治。渋谷五郎と三木は、団体メンバーから外(はず)れた。