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【伝説のプレーヤーたち】革新的な打法、ループドライブを生み出した男・中西義治 前編

The Legends 第10回 中西義治(昭和34年度全日本選手権3位)

時は1950年代。
技術の発展と用具の開発が飛躍的に進んでいった時代。
まだ「特殊ラバー」と呼ばれていた裏ソフトラバーを使って
驚異の“魔球”を打つ男が現れた。
彼の名は中西義治。
これは卓球の歴史を変えた
ループドライブ誕生の物語だ。

■Profile なかにし・よしはる
1938(昭和13)年1月22日生まれ、東京都出身。日大一中入学後に本格的に卓球をはじめ、日大一高3年時に全日本ジュニア優勝。日本大に進学し、全日本では4年連続でランク入り、4年時の全日本では単複ともに3位。実業団のヤシカでも主力選手として全日本実業団優勝に貢献した。88〜92年まで日本卓球協会の強化本部委員も務めた

Interview by
今野昇・柳澤太朗Noboru Konno & Taro Yanagisawa
Photo provided by
中西義治・卓球レポートYoshiharu Nakanishi

荻村さんに初めて会った時は太ももの筋肉に驚いた。
それから毎日10kmくらいランニングするようになった

 「ボールには猛烈な回転がかかっているので、バウンドしてから低く這(は)うように伸びていく。対戦相手はボールのバウンドを予測できなくて、空振りばかり。ラケットがボールの上を通過していきました」

 中西義治は自(みずか)らが編み出した魔球、ループドライブの威力をそう語る。
 今では誰もが当たり前のように使いこなすこの技術が、魔球と呼ばれた時代があった。ある者はそれをマスターしようと猛練習に取り組み、ある者はそれを封じるために必死で知恵を絞った。

 強いトップスピン(前進回転)のかかったループドライブは、後(のち)により攻撃的なパワードライブや、打球点の早いカウンタードライブへと進化を遂(と)げ、現代卓球の根幹(こんかん)を支える技術となっている。ループドライブの誕生は、間違いなくひとつの技術革新だった。もし、卓球が体操のように、開発者の苗字(みょうじ)をその技術に冠(かん)していたとしたら、ラケットを握る世界中の子どもたちが「ナカニシ」という言葉を口にしていたかもしれない。

 世界選手権で日の丸をつける機会にはついに恵まれなかった。しかし、日本の卓球の歴史を振り返る時、ループドライブの生みの親、中西義治の名前を外(はず)すことはできない。

 世界を震撼(しんかん)させた魔球は、決して器用ではない無骨(ぶこつ)なプレーヤーの、努力と工夫の産物(さんぶつ)だった。

 1938(昭和13)年1月22日、5人兄妹の長男として、東京・墨田区に生まれた中西義治。実家は二代続いた下町の鉄工所、生粋(きっすい)の江戸っ子だった。昭和20年3月10日の東京大空襲で、実家も鉄工所もすべて焼失したが、兄妹で唯一の男の子だった義治は、母・文子が疎開(そかい)させていて無事だった。尋常(じんじょう)小学校1年生の時、疎開先の群馬県高崎市で終戦を迎えた。

 卓球を本格的に始めたのは、地元・墨田区の両国にある日大一中に入学してからだ。まだ創部間もない日大一中の卓球部には、先輩がひとりしかいなかったが、同期に中西を含めて5名の選手が入部。東京都中学校大会で3年連続団体優勝し、そのまま中・高一貫の日大一高に入学する。顧問の青木豊治先生が卓球部の強化に情熱を注(そそ)ぎ、後に多くのトップ選手を輩出(はいしゅつ)した名門校の礎(いしずえ)が築かれていく。

 中学・高校時代は卓球部の練習が終わった後も、日暮里にあるアームストロングの卓球場「東京卓球会館」へバスで通った。日本のトップ選手で、この卓球場を訪れない者はいなかったと言われる伝説の卓球場。中学時代は台につくのは恐れ多く、もっぱら球拾い。「球拾いのためにバスで通ってたんだから、今思えばバカな話だよね」と中西は笑うが、周りの人たちはそんな「愛すべき卓球少年」をかわいがってくれた。

 後に世界チャンピオンになる荻村伊智朗(54・56年世界選手権優勝)も、東京卓球会館をしばしば訪れていた。  
 「荻村さんに初めて会った時は、太もものカッチリ割れた筋肉に驚いた。『よし、オレもあれくらいになるまでトレーニングしてやるぞ』と思って、毎日10㎞近くランニングするようになりました。荻村さんが台についている時は、何かひとつでも良いところを学ぼうと、眼を皿のようにして観察していましたね」

 日大一中・高の練習場には荻村や、日大卓球部で荻村の一年後輩だった田中利明(55・57年世界選手権優勝)が、後輩の選手たちを連れて指導に訪れることもあった。中西は時に超一流の選手たちから指導を受けながら、厳しい練習に励んだ。チームメイトたちと夜を撤(てっ)して練習を行うこともあったという。

 「本当に練習環境には恵まれていたと思います。高校3年の札幌でのインターハイの時には、日大卓球部の矢尾板弘監督、それに荻村さん、田中さんがベンチにずらりと並んでいたんですから。今では部外者がベンチに入るのは考えられないことですが、当時はおおらかな時代だったんです」

 この高校3年の札幌インターハイでは、学校対抗決勝で浜松商業高に敗れ、惜しくも準優勝に終わったが、高校最後の全日本ジュニア(当時は高校3年生も出場可)では、決勝で豊巻良夫(北野高)を破って見事に優勝。東京卓球会館では、「あの球拾いばかりしていた子が優勝した」というので、たくさんの人たちから祝福された。

 そして、この優勝を一番喜んでくれたのが父・善太郎だった。まだ戦後間もなく、誰もが苦しい生活を送っていたこの時代。しかし、父は卓球に打ち込む息子・義治を全力で応援してくれた。大会が行われるたびに鉄工所の工員たちを引き連れ、旗竿(はたざお)を振り回して応援に声を枯(か)らす父は、日大一高卓球部の名物だった。

 高校時代の中西はペンホルダーにスポンジラバーを貼ったサウスポーの攻撃型。走り込んで鍛えた脚力には自信があり、台から距離を取っての打ち合いを得意としていた。裏ソフトに変えるのは大学に入学してからだ。

 全日本ジュニアチャンピオンが入学先に選んだのは、もちろん日本大学。中学から大学まで日大ひと筋。荻村伊智朗は中西が入学した年に日大を卒業したが、入学時の4年生に田中利明、2年生に成田静司(昭和32・33年度全日本選手権優勝)がいた。全日本選手権の男子シングルスの優勝杯、天皇杯は日大の選手たちによってリレーされ、名指導者・矢尾板弘監督のもと、日大の黄金時代が続いていた。

『卓球レポート』(タマス社発行)の1959年11月号に掲載された、中西のループドライブの連続写真。力感あふれるフォームから放たれるループドライブは、抜群の回転量を誇った ※写真提供:『卓球レポート』