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【伝説のプレーヤーたち】革新的な打法、ループドライブを生み出した男・中西義治 前編

裏側に鉄板を貼ったラケット。重いラケットで練習すれば
腕力や筋力もつくし、スイングも早くなると考えた。

 「体は筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)、力が強くて、卓球をやるのはもったいないくらいだった」。日大の先輩・成田静司は中西をそう評する。当時の卓球雑誌の写真を見ても、短パンがはち切れそうなほど発達した太ももの筋肉、ガッチリ太い首、厚みのある背中には迫力がある。

 しかし、中西は日大に入学してからしばらくの間、ひとつの悩みを抱えていた。カットマンが大の苦手(にがて)だったのだ。
 先輩の成田はペンのカット主戦型、同期では明治大にシェークカット型の渋谷五郎(61年世界選手権代表)という強敵がいた。世界に眼を向ければ、欧州にはシド(ハンガリー/53年世界選手権優勝)やベルチック(ハンガリー/57・59年世界選手権ベスト8)といったカットの強豪がいた。世界の扉を開くためにも、世界で勝ち上がっていくためにも、対カットの攻略は避(さ)けて通れない課題だった。

 そんな時、中西に大きなヒントを与えた、ふたつの出来事があった。
 先輩の荻村伊智朗が世界選手権でのヨーロッパ遠征から帰国してきた時のことだ。当時は世界の卓球界について、ほとんど情報が得られない時代。「ヨーロッパはどうでしたか?」「選手たちはどんなプレーをするんですか?」中西もむしゃぶりつくように荻村に質問を投げかけた。

 「カットの選手はとにかくカットがよく切れている。打ったボールがネットを越えない」。それが荻村の返答だった。「お前みたいにカット打ちの下手(へた)なヤツがネットを越せたら、アイスクリームをおごってやるよ」。

 それは、荻村流の激励だったのかもしれない。ちなみに、後に中西のループドライブは、欧州勢のカットに対しても高々とネットを越えるようになったが、荻村からアイスクリームをおごってもらった記憶はない。

 どんなに弧線(こせん)の高いボールになっても、まずネットを越えること。それが中西のカット攻略のひとつの目標だった。日大の矢尾板弘監督は、両側のサポートの上につぎ足して割り箸(ばし)を立て、ネットの4倍の高さ、だいたい60㎝くらいのところに糸を張った。切れたカットに対してネットを越えるために、この高さを目標にして、強く擦(こす)り上げるように回転をかける練習を徹底的にやった。安定してその糸を越えるようになると、今度は自分の狙ったポイントに落とせるまで練習を続けた。

 練習で使ったラケットも、ただのラケットではない。この頃発行されていた卓球雑誌「THE TABLE TENNIS」の誌上で、中西は次のように語っている(原文のまま掲載)。

 「元来私はスウィングがスローであった為(ため)球速は遅かつたが反面球質は存外重かつた。ミート(打球瞬間)が弱いのでカット打ちに人の数倍苦心(くしん)が掛(かか)つた。そこで私はラケットの裏側に十五センチ平方の鉄板を貼りつけ、常用バット(※注・ラケットのこと)より数倍重いものにして、切れたカットを打ち返す練習をした」

 鉄板を貼り付けたラケットは、中西が野球を観ていた時、ウェイティングサークルで重いバットを振っている選手からヒントを得た。実家が鉄工所なので、鉄板ならいくらでも手に入る。重いラケットで練習しておけば、腕力や筋力もつくし、試合で使うラケットに戻しても、しばらくの間は速いスイングスピードで振れるはずだと考えた。

 試合で使うラケットは桧(ひのき)の単板で、周りの選手が使うよりも重めのもの。合わせるラバーは、裏ソフトラバーの元祖、ヤサカ『オリジナル』の4㎜皮付きという、強打者ならではの用具選び。

 中西が大学2・3年の時に、全日本選手権の準々決勝で2年続けて中西と対戦した成田は、そのボールの変化を体感していた。