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【伝説のプレイヤーたち】江口冨士枝 後編 「私は不器用なんですわ。だから人の何倍も努力せなあきまへん」

The Legends 第11回 江口冨士枝(1957年世界チャンピオン・世界選手権金メダル6個獲得)

1950年代、世界を席巻(せっけん)し、「卓球ニッポン」を築いた先人たち。
女子の中で輝きを放ち、6個の金メダルを獲得した江口冨士枝。
猛烈な練習と負けん気でニッポンの卓球を牽引(けんいん)し、現役引退後は裏方として日本卓球界を支えた。
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた情熱の源は何だったのだろう。

■Profile えぐち・ふじえ
1932年(昭和7年)11月18日、長崎県長崎市生まれ。7歳で大阪に移り、東船場高から大阪薬科大学に進む。1954年世界選手権ウェンブレー大会に初出場、1957年世界選手権ストックホルム大会で女子シングルスを含め三冠王。世界選手権では6個の金メダルを獲得し、全日本選手権は2度優勝を飾る。現役引退後はレディース卓球に尽力し、日本卓球協会レディース委員会委員長、大阪卓球協会会長などを務めた。2021年5月に逝去

Interview by

今野昇Noboru Konno

 当時の世界の潮流はヨーロッパのシェークのカットマンだった。男子にはリーチ、バーグマン(イングランド)、シド(ハンガリー)がいて、女子には世界大会6連覇の女王ロゼアヌ(ルーマニア)、ロー姉妹(イングランド)、コチアン(ハンガリー)などの名手がひしめいていた。
 大会前の合宿では、男子は貴重なシェークのカットマンだった藤井基男が練習相手を務めていたが、荻村伊智朗、富田芳雄という代表選手は休ませてくれない。藤井が精も根も尽き果て、階段を這(は)うように上っていたのを江口は目撃している。
 「卓球界で尊敬する方は多いけれども、荻村さんと藤井さんは卓球だけでなく人間的にも素晴らしかったと思っています」
 江口は現役引退後も藤井と親交を深め、卓球の普及の面では荻村をサポートした。
 54年当時は羽田空港からプロペラ機に乗り、南回りでイギリスに飛ぶルートだった。タラップのすぐそばまで見送りの人たちが来た。みんなが小さな日の丸の旗を打ち振りながら、口々に「勝ってこいよ、負けて帰るなよ」と声がかかる。
 その飛行機で、サイゴン、ベイルート、ローマで給油しながら、終点のロンドン郊外のヒースロー空港に着く。日本からまるまる2日間かかった。飛行機から降りた時に体がフラフラしていたが、直前まで合宿で自分を追い込んでいた江口にとってはそれさえも休養に思えた。

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