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【People】濵田裕和:現役時代の葛藤を経て真摯に指導の道を歩む

[土佐女子中・高 監督]

[はまだ・ひろかず]
1976年3月25日生まれ、千葉県四街道市出身。千城台卓球クラブで卓球を始め、全日本卓球ホープスの部優勝。埼工大深谷高2年時に全日本卓球ジュニアの部優勝。93年世界卓球選手権日本代表。専修大3年時、96年度全日本卓球ベスト8。翌97年度全日本卓球混合複準優勝。協和発酵でのプレーを経て2001年から高知に在住。12年から土佐女子中・高卓球部の指導を始め、14年から監督を務める

Text by
高部大幹Hiromoto Takabe

高知の「濵田家」と言えば、卓球界随一の名門だ。73年世界卓球選手権女子複優勝の濵田美穂、夫・慎吾(旧姓・阿部)は全日学3位。その娘で97年度全日本卓球混合複準優勝の華奈子、その時のダブルスパートナーで、後の夫である濵田裕和(旧姓・村上)、その息子・一輝(早稲田大)は、裕和に続いて父子での全日本卓球ジュニアの部優勝を果たした。裕和は現在、名門・土佐女子中・高卓球部の指導に携わって12年になる。(卓球王国2024年3月号掲載)

諦めずにやり切る中でたくさん学ぶことがあり、選手を辞めた後にもそれが生きてくる。それはやり切らないと見えてこない

 1976年生まれの村上裕和は、母の影響で卓球を始め、小学生時代から頭角を現した。埼工大深谷高2年時、92年度全日本ジュニアでは優勝。柔らかいボールタッチによる両ハンドドライブは当時の日本では先進的で、将来を嘱望された裕和は、専修大、協和発酵(現・協和キリン)と名門街道を歩んだ。

 「3年間在籍した協和では、仕事と卓球を両立しながら、スウェーデンやドイツに派遣してもらうなど、貴重な経験をさせていただいた。ただ、高校3年時から海外遠征に選んでいただいていたけど、1回戦負けの繰り返しで、世界の高い壁を感じていた。現役を続けることへのモヤモヤがずっとあった」

 葛藤を抱いていた裕和が選んだのは、教員として卓球を指導する道だった。「会社に残るか悩んだが、恩師である協和発酵の佐藤真二監督が『自分で決めた道に進むべき』と後押ししてくださった」

 こうして裕和は、2001年春に協和発酵を退職して高知に移住。濵田華奈子と結婚し、高知市スポーツ振興事業団に所属してプレーを続け、翌年の高知国体に夫婦で出場してから引退。その後しばらくスポーツ指導員の仕事を続け、土佐女子中・高の事務職を経て、同校の体育教員となった。

 その中で、12年に義母の美穂が土佐女子中・高卓球部監督を退くにあたり、本来は華奈子が監督を継ぐ予定だったが、出産・育児と時期が重なったため、裕和が指導を受け継いだ。以来12年、名門校を率いて現在に至る。

 「先輩方からは早めの現役引退を引き止めていただいたけど、今の道を選んだことに後悔はありません。ただ、指導の難しさは今でも感じています。正直、自分でプレーするほうが楽ですね(笑)。

 初めは私も若く、強く言い過ぎるなど、たくさん失敗した。思春期の女の子に接するのは難しいけど、失敗しながら少しずつ伝え方がわかってきた。

 今の部活は、自分が通ってきた道とはまるで違い、昔の根性論ではうまくいかない。古き良きものを継承しながらも新しいものを取り入れていかないといけない。押し付けでなく、問いかけが大切だと思っています。

 一方で、千本ラリーのようなことを強制的にさせることも、時には必要です。それで心が折れる子もいるので、あくまでケースバイケースですね。相手は女の子なので、妻に相談しています」

 高知県内には、明徳義塾という強力なライバル校があり、全国から選手が集まっている。一方で土佐女子は、地元中心の選手で地道に活動を続けている。

 「目標は常に全国優勝で、伝統校としてこの目標を下げたくはない。生徒には『6年間、やり切りなさい』と常々言っている。諦めずにやり切る中でたくさん学ぶことがあり、選手を辞めた後にもそれが生きてくる。それはやり切らないと見えてこない」

 厳しい勝負の世界を経験しながらも、現在は温和な人柄を活かした指導を続ける濵田裕和。「生徒には『うるさいな』と思われてるかも」と笑うが、選手として、指導者として全力で取り組んできた彼の言葉は、土佐女子の生徒の心に響いているはずだ。

(文中敬称略)

23年8月に高知市で開催された全国中学校卓球大会にて、濵田ファミリー。右端から裕和、三男・隼矢(高知大附属中の主将として全中に出場)、四男・悠真、華奈子。長男・一輝と次男・尚人は早稲田大卓球部で活躍中(24年現在)