【伝説のプレイヤーたち】渡辺妃生子 後編 「卓球とともに生きてきた。卓球は私の元気の源でもあります」
The Legends 第12回 渡辺妃生子(1954・7年世界選手権女子団体優勝/卓球王国2017年5月号掲載)
卓球台にのしかかるような、豪快なフォームから放つフォア強打。
「卓球ニッポン」黄金時代の中心で、渡辺妃生子の豪打は燦然(さんぜん)と輝いた。
4年間の大学生活で、世界選手権4回出場、全日本選手権優勝2回。
すべてを燃やし尽くした、伝説のハードヒッターの物語だ。
■Profile わたなべ・きいこ
1934年11月3日、静岡県富士宮市出身。現性:加藤。中学1年で卓球を始め、富士宮東高を経て専修大に入学。大学1年時に全日本選手権と全日本学生選手権を制し、世界選手権4大会連続出場。54・57年大会で団体優勝、56年大会でシングルス準優勝となる。引退後は日本レクレーション卓球連盟会長を務めるなど、レディースや高齢者への卓球の普及に尽力している
Interview by
世界選手権に出場した4年間、エースとして団体戦に勝てば
責任は果たせるという思いがずっと頭の中にありました
1954(昭和27)年4月5~14日、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われた第21回世界選手権。日本が2年ぶり2回目の出場を果たしたこの大会で、渡辺は4人の代表メンバーに入り、初めて世界選手権に出場。日の丸を胸にロンドンの地に降り立った。
大会前半の女子団体、渡辺は長谷川喜代太郎監督に「とにかくエースに当ててください」と志願し、対戦チームのエースを次々に倒していく。
当時のヨーロッパの女子選手はほとんどがカット型。そして今とは違い、対戦相手の情報は全くなかった。
優勝がかかった決勝リーグ最終戦のハンガリー戦、渡辺は2番でカット型の選手と対戦する。「この人のカットは切れているなあ。いくら打っても返ってくるし、本当に強いなあ」。そう思いながら戦って、ゲームオールでようやく勝つことができた相手は、この大会で3位に入った強豪・コチアンだった。渡辺は4番でも47~49年世界選手権3連覇のゲルバイ(旧姓:ファルカス)を破り、無我夢中(むがむちゅう)の戦いの末に優勝を決めた。