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【伝説のプレイヤーたち】松﨑キミ代 前編その2 「私は男子の卓球選手に憧れたんです。男子に力負けしないように深いグリップになった」

ひょっと父親を見たら涙をうわーっと流していた。
ああ、喜んでくれているんだなと思いました

 大学1年の全日本選手権では、その前年の世界選手権東京大会で女王・ロゼアヌ(ルーマニア)を破った田坂清子に敗れた松﨑。
 しかし、この大会で優勝した山泉(現姓:伊藤)和子を、2週間後の全日本学生選手権の準決勝で破り、1年生で全日学のタイトルを手にする。全日本女王を3−0で破っての優勝は、大きな自信になった。
 大学2年になると、苦しかった1年生での「下積み」が花開くように、松﨑は次々に勝利を重ねていく。8月の国体の東京都予選では、時の世界チャンピオンである東洋レーヨンの江口冨士枝を破った。江口は松﨑より6歳年上。高校1年の松﨑が丸亀インターハイで奮闘していた時、54年ウェンブレー大会の日本代表として世界の舞台で戦っていた大先輩だった。

卓球人生の中で、私は全日本での初優勝が一番嬉しかったんです。
世界選手権で優勝した時よりもうれしかったですね

 江口との再戦はその4カ月後、12月初旬の全日本選手権決勝。「とにかく打つだけでした。打って打って打ちまくれという感じで、江口さんのフォアを中心に攻めて、フォアの打ち合いに持ち込む作戦でした」と松﨑はこの一戦を振り返る。
 右ペン一枚ラバーの攻撃型である江口はバックサイドが強く、回り込みも早い。フォア攻めでペースをつかみ、19−16のリードから19−19に追いつかれた第1ゲームを21−19で押し切って先取すると、そのまま一気にストレート勝ちを収めた。
 「卓球人生の中で、私は全日本での初優勝が一番うれしかったんです。世界選手権で優勝した時よりもうれしかったですね。全日本の頂点に立ったという喜び、憧れの江口さんに勝ったという喜び、これで世界選手権の代表に選ばれるかもしれないという三つの喜びですね。親にもこれで顔向けができると思いました」

1958(昭和33)年の全日本選手権で初優勝。左は男子シングルス優勝の成田静司

 初めての全日本の決勝の舞台でも、松﨑に緊張感はなかった。それはランク決定戦の中島芳江(日清紡)戦で、3ゲームズマッチのゲームオール17−20から逆転勝ちを収めたことが大きい。前年の全日本選手権で江口から金星を挙げた中島は、女子では珍しくバックハンドも操(あやつ)るペン裏ソフトの攻撃型。ほぼオールフォアで動く松﨑は大いに苦しめられたが、敗戦の瀬戸際(せとぎわ)に立たされたことで、プレッシャーで縮(ちぢ)こまっていた腕がむしろ大きく振れるようになった。
 もしランク決定戦で中島に敗れていたら、松﨑が翌年の世界選手権ドルトムント大会の代表に選ばれることはなく、未来は全く違ったものになっていただろう。星の数ほどの強豪選手が頂点を目指してしのぎを削りながら、わずか1本、2本の差で競技人生に明暗を分ける。それが黄金時代の真(ま)っ直中(ただなか)にあった「卓球ニッポン」の、過酷(かこく)な現実だった。
 1学年下の村上(現姓:渋谷)淑子と組んだ女子ダブルスも制し、全日本2冠に輝いた松﨑。2週間後の全日本学生選手権でも単複を制し、待ちに待った冬休みの帰省の日。夜行列車の瀬戸号に乗り込み、網棚(あみだな)に乗せた全日本の皇后杯や大切なラケットが心配でちらちら目をやりながら、眠るともなく夜が明けていった。
 「岡山県の宇野から宇高(うこう)連絡船に乗って、高松港の桟橋(さんばし)には歓迎の幟(のぼり)が立っていました。そして高瀬駅では町長さんや地元の学校の子どもたちが歓迎してくれたんです。
 花束(はなたば)を受け取って、二言三言挨拶(あいさつ)をして、ひょっと父親のほうを見たら涙をうわーっと流していた。ああ、喜んでくれているんだなと思いましたよ。口では何も言わなくてもね」
 ドルトムント大会の日本代表選手の発表は、翌59年1月15日の成人式の日。松﨑はいてもたってもいられず新宿まで出て、伊勢丹百貨店の家電売場のラジオで代表入りのニュースを聞いた。何とも言えないうれしさがこみ上げてきた。
 関東を制する者は日本を制す、日本を制する者は世界を制す。
 それは関東学生のトップ選手たちの合い言葉だった。うれしさの後で身が引き締まるような緊張感を感じながら、しかし松﨑キミ代はまだ、世界で優勝できるとは少しも思っていなかった。(後編に続く)