【伝説のプレイヤーたち】深津尚子 前編 「桜丘での練習がなければ、私はとても日本代表にはなれなかったと思います」
The Legends 第14回 深津尚子(1965年世界選手権女子シングルス優勝/卓球王国2017年12月号掲載)
最先端の技術だったドライブを、日本の女子選手では初めて取り入れ、
65年世界選手権で頂点に上り詰めた深津尚子。
「千本ラリー」で培(つちか)った自信を胸に、苦手だったカット打ちを克服。
爽(さわ)やかなルックスに秘められた、カット型をも上回る粘り強さこそ、
彼女の最大の才能だった。
■Profile ふかつ・なおこ
1944年12月23日生まれ、愛知県出身。現姓・徳永。香山中1年時に卓球を始め、桜丘高3年時にインターハイ優勝。慶應義塾大に進学し、大学2年時に初めて出場した65年世界選手権で女子シングルス優勝、67年世界選手権では女子団体優勝。現在は高松の料亭『二蝶』の大女将を務める。右ペンホルダー裏ソフト攻撃型
Interview by
練習を見に行ったらラリーが続いてかっこ良いし、
『絶対卓球部に入りたい』と思いましたね
「答えがわかったら、手を挙(あ)げて『ハイッ!』と言いなさい」
小学生の頃、母親からはそんなことをよく言われていたという。担任の先生には、通知表に「理解はしているようですが、あまり発表しないからもっと元気良く」と書かれた。
しかし、中学校で卓球と出合い、胸に芽生(めば)えた自信が、控え目でおとなしい少女だった深津尚子を変えた。持って生まれた粘り強さと精神力を武器に、突き進んだ太く短い卓球道。中学生の時にラケットの裏に書きつけたのは、教科書で読んだ武者小路実篤(むしょのこうじさねあつ)の言葉だった
「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」
それは多くの幸運なタイミングに導かれた、世界の頂点への最短ルートだった。
1944(昭和19)年12月23日、後に日本女子で4人目の世界チャンピオンとなる深津尚子は、愛知県岡崎市に生(せい)を受けた。