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【伝説のプレイヤーたち】星野展弥 後編「試合で競った時は、『これがオレの卓球や』というのをみんなに見せろ」

The Legends 第15回 星野展弥(1959年世界選手権男子団体優勝/卓球王国2018年3月号掲載)

ギョロリと大きい眼で相手を見据(みす)え、
ウェアの襟を立てて颯爽(さっそう)とプレーした浪花(なにわ)の快男児。
「原爆」の異名を取ったスマッシュを武器に、星野展弥は短い現役生活を駆け抜けた。
選手として指導者として、卓球ひと筋の人生は、周りを照らす太陽のような光にあふれている。

■Profile ほしの・のぶや
1937年2月1日生まれ、大阪府出身。堺工業高1年時に卓球を始め、高校3年でインターハイ3位。専修大4年時に59年世界選手権に出場し、男子団体5連覇に貢献。60年度全日本選手権で優勝して、61年世界選手権でも2大会連続で代表となり、男子団体2位、男子ダブルス優勝という成績を残した。右ペンホルダー裏ソフト攻撃型

Interview by

柳澤太朗Taro Yanagisawa

卓球人生の中で裏ソフトに負けた経験は一度もない。
負けた相手は全部、表ソフトと一枚ラバーですよ

 高校・大学時代を通じて、星野は表ソフトや一枚ラバーを使用するペンホルダーの攻守型、そしてカット型が苦手だった。「ぼくは卓球人生の中で、裏ソフトに負けた経験は一度もない。負けた相手は全部、表ソフトと一枚ラバーですよ」と星野は言う。
 専修大時代は規定練習が終わると、右ペンホルダー一枚ラバーの野平明雄(56年世界選手権3位)と、ひたすらゲーム練習を繰り返した。負ければ試合後の合宿所の風呂場(ふろば)で、1年先輩の野平は腕を組んでどっかりと座り込み、「おい、洗え」と命じた。
 この一枚ラバー対策の成果が出たのか、大学3年で迎えた1958(昭和33)年度の全日本選手権では、準々決勝で野平と対戦。猛烈な打撃戦を展開し、ゲームオール12-18からの大逆転で勝利を収めている。その勢いで初の決勝進出を果たした星野だが、右ペンホルダー一枚ラバーのカット型である成田静司(日本大)に1-3で敗れ、初優勝を逃した。

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