ロゴ画像
卓球王国PLUS > コラム > [卓球本悦楽主義22] 荻村節に笑いながらもつい感動。魅力に溢れた自叙伝
記事見出し画像

[卓球本悦楽主義22] 荻村節に笑いながらもつい感動。魅力に溢れた自叙伝

〈卓球専門書の愉しい読み方22〉卓球王国2005年10月号掲載

Text by
伊藤条太Jota Ito

『卓球・勉強・卓球』

 ■ 荻村伊智朗・著[昭和六一年  岩波書店]

荻村節に笑いながらもつい感動。魅力に溢れた自叙伝

  ミスター卓球 と呼ばれた男、荻村伊智朗の自叙伝である。高校1年で卓球を始め、21歳で世界チャンピオンとなり、多くの世界チャンピオンの育成を経て、国際卓球連盟の要職(当時会長代理、後に会長)に至る半生が綴られている。
 タイトルが『卓球・勉強・卓球』で、裏カバーにも「勉強とスポーツを両立させた努力の軌跡」とあるが、勉強の話は1ページしか出てこない。見事なハッタリである。

 内容も素晴らしい。いかにも荻村らしい”したり顔”の口調で、出来すぎたエピソードが次々と語られる。「ほんとかよ?」と笑いながらも、つい感動してしまう、そんな魅力に溢(あふ)れた自叙伝である。

著者の故・荻村伊智朗

 話は、荻村が都立西高で卓球と出合うところから始まる。みんなでアルバイトをして卓球台を買って、大八車に乗せて渋谷の道玄坂から井の頭街道まで引っ張ってくるところ、インターハイの費用を捻出(ねんしゅつ)するために修学旅行を返上するところ、学校に無断で合宿を企てて校長先生に見つかって怒られるところなど、実に生き生きと描かれている。

 結局、私は在学中は一度も合宿をできなかったし、インターハイにも行ったこともないし、修学旅行にも行ったこともありません。(中略)東京の中で卓球ばかりやっていたということになりました。

 何の打算もなく、ただ純粋に卓球に熱中する荻村少年の姿がここにある。初々(ういうい)しい写真がまぶしいほどである。
 荻村は2歳の時に父を亡くし、母親と二人暮らし。母親は教育熱心だったが、荻村は高校3年の大学受験の期間中も、母親の目を盗んで卓球の練習を続ける。風呂に行くと言って出かけるのだ。

 三キロほどの道を一五分ぐらいで走って行き、卓球の練習を三〇分から四〇分ぐらいやって、それからまた一五分ぐらいで走って帰ってきます。真赤な顔をして帰ってくるので、母親は本当に風呂に行ったと思って信じて疑わなかったのですが、一日も休まず卓球をやりました。

高校時代の貴重な写真も掲載してある

 風呂に入ってきれいになるはずの息子が、逆に汗臭くなって帰ってくるのを、この母親はどう思っていたのだろうか。それにこの息子は風呂に入っていなかったのだろうか。なんとも愉快な話である。

 都立大に入学した荻村は、世界チャンピオンになったばかりの佐藤博治ら日本代表とイギリス人選手、バーグマンらの試合を観戦する機会を得る。試合は日本代表の完敗だった。しかし、最後まで自分の戦法を貫き通した佐藤の堂々たる戦いぶりに、荻村は「生涯の手本」と言うほどの強い感銘を受ける。

 けれども、同時に思ったのは、「ああ、これはこの人たちがまた再び、世界選手権で勝つということはもうありえない。やっぱり自分たちがやらなければだめだ」ということで、はじめて自分と世界選手権とを後楽園のアイスパレスで結びつけたのです。

 卓球界の先輩を尊敬しながらも、同時に不遜(ふそん)とも言える思い込みをするチャンピオンの特質が、もう既に表れている。

1952年に行われた日本対イングランド戦。荻村は当時世界チャンピオンの佐藤博治(右)のプレーに強い感銘を受けた

 こうして荻村の卓球への情熱はいよいよ高まり、都立大1年の暮れ、選手生命を賭けた試合を迎える。全日本選手権である。荻村はこの大会に向け、日暮里駅の階段を、二度も休まなければ上がれなくなるほどの激しい練習をやり込んでいた。しかし優勝どころか、東京予選で敗れてしまう。荻村は初めて人前で声を出して泣いた。

 その日の日記に、大変キザな言葉なのですが、 ”笑いを忘れた日”と書きました。「もう卓球をやめられない」と思ったのです。「負けてやめるのは挫折(ざせつ)だ。いままでの一心不乱の何年間が挫折だなんて承知できない。必ず納得のいくプレーをやってからやめよう」と思ったのです。

 母親の雑誌を一冊ずつ古本屋に売って練習代を得ていた無名の貧しい青年が、試合で負けた夜、母親が寝静まった隣の部屋で、ひとりノートに”笑いを忘れた日”と書きつける、その光景をリアルに想像する時、私は言い知れない感動を覚える。
 それからの荻村は、生活のすべてを卓球に捧げた死に物狂いの生活を送る。
 こうして翌年、全日本選手権で優勝し、一気に世界への階段を駆け上がるのである。

 初出場したロンドンでの世界選手権では、対戦した大選手バーグマンを強く尊敬する一方で、「勝つだけではつまらない」と、バーグマンの腹にスマッシュを何発当てるかをチームメイトの江口冨士枝に数えさせている(本当に尊敬していたのだろうか)。

39、48、50年世界チャンピオンのバーグマン(イングランド)

 体のそばにくる球というのは必ずラケットが届くはずなので、それをミスすること自体おかしいのです。(中略)そういうことはありえないはずなのですが、私の体の切れがあまりにも速かった結果だと思います。

 「思います」って言われても(笑)。

 このようなキツイ自慢話を平然と書くところが、実に荻村らしくて良い。それは卓球にとどまらず、野球や体操、勉強、はてはスポーツドリンクから焼き鳥の大食い記録にまで及ぶ。あれほどの地位と名声を得てなお、こんなことまで自慢せずにはいられない荻村伊智朗とは、なんと大変な人だったのだろうか。

 荻村は平成5年にも同じく岩波ジュニア新書から『スポーツが世界をつなぐ』を出している。内容の約3分の1が本書と重複するが、こちらも荻村節満載の素晴らしい本である。ぜひとも本書と合わせて一冊にまとめ、自伝の決定版として発行してほしいものである。(文中敬称略)

*太字は原文から引用してそのまま掲載

■Profile いとう・じょうた

1964年岩手県生まれ。中学1年からペン表ソフトで卓球を始め、高校時代に男子シングルスで県ベスト8。大学時代、村上力氏に影響を受け裏ソフト+アンチのペン異質反転ロビング型に転向しさんざんな目に遭う。家電メーカーに就職後、ワルドナーにあこがれシェークに転向するが、5年かけてもドライブができず断念し両面表ソフトとなる。このころから情熱が余りはじめ卓球本を収集したり卓球協会や卓球雑誌に手紙を送りつけたりするようになる。卓球本収集がきっかけで2004年から月刊誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。世界選手権の[裏]現地リポート、DVD『ザ・ファイナル』の監督なども担当。中学生の指導をする都合から再びシェーク裏裏となり少しずつドライブができるようになる。2017年末に家電メーカーを退職し卓球普及活動にいそしむ。著書に『ようこそ卓球地獄へ』『卓球天国の扉』がある。仙台市在住。

ようこそ卓球地獄へ
卓球天国の扉