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【伝説のプレイヤーたち】木村興治 後編「我々のスポーツである卓球を守らなければいけない」

The Legends 第17回 木村興治(1961年世界選手権男子複、63・65年混合複優勝/卓球王国2018年6月号掲載)

Interview by

柳澤太朗Taro Yanagisawa

飛ばない一枚ラバーで磨き抜いた恐るべきスイングスピード。
木村興治の潜在能力は、裏ソフトという武器と出合い、
爆発的な開花の時を迎えた。
61年北京大会、1万5千人の大観衆を前にしても
怯むことなく強打に徹した豪胆さ。
まっすぐな卓球道を貫いたひとりのサムライの物語だ。

■Profile きむら・こうじ
1940年12月11日生まれ、秋田県出身。秋田高3年時に全日本ジュニアベスト8、早稲田大に進学し、大学2年の61年北京大会から世界選手権4大会に出場。団体では61・63・65年2位、67年優勝、61年男子複優勝、63・65年混合複優勝。現役引退後はITTF副会長、日本卓球協会の専務理事・副会長などを歴任した

北京大会が始まる前は、中国があれほど強いと思っていなかった。
まだヨーロッパをマークしていた

 1952年の世界選手権初出場から、輝かしい黄金時代を築いた「卓球ニッポン」。その栄光にひとつのピリオドが打たれたのは、木村が初出場した61年世界選手権北京大会だ。中国が男子団体、男子シングルス、女子シングルスの3種目で優勝し、一気に日本に肩を並べた。

 61年北京大会、63年プラハ大会、65年リュブリアナ大会。60年代前半に行われた3回の世界選手権は、完全に「日中対決」の構図。その中で、中国が最も恐れ、警戒していた日本選手が木村興治だった。

 男子シングルスの優勝を容国団(中国)にさらわれ、荻村が手記に「同じペンホルダーでありながら、全く違うタイプの卓球を作り上げつつある中共(中国)の努力に対し、我々は安閑としてはいられない気がする」と書きつけた59年ドルトムント大会。それから2年、日本チームはドライブという新兵器を開発し、ヨーロッパのカット型を一掃しつつあったが、中国対策は全く進んでいなかった。「北京大会が始まる前は、中国があれほど強いとは思っていなかった。マークしていたのはまだヨーロッパだった」と木村は当時を振り返る。

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