【伝説のプレイヤーたち】山中教子 後編 「卓球は深さと魅力のあるスポーツだと確信を持っているんです」
The Legends 第19回 山中教子(1963・67年世界選手権女子団体優勝/卓球王国2018年12月号掲載)
Interview by
左腕から放つ強烈なスマッシュ、
コート深くに突き刺すバックプッシュで、圧巻の攻撃卓球を展開した山中教子。
全日本選手権を二度制しながら、世界選手権は2大会連続3位。
しかし、「無冠の女王」に悔いはない。彼女にとって勝利よりも大切なもの、
追い求め続けたものは、何だったのか?
■Profile やまなか・のりこ
1941(昭和16)年11月19日生まれ、京都府出身。上京中を経て精華女子高に進学し、高校1・3年時にインターハイ女子複優勝、高校3年時に全日本ジュニア優勝。世界選手権は63年プラハ大会から3大会連続出場し、63・67年女子団体優勝、67年混合複優勝、シングルスは65・67年大会で3位に入った。全日本選手権では64・66年度大会で女子シングルス優勝。左ペンホルダー・一枚ラバーから後に表ソフトに転向した
表ソフトに変えて、少しずつ勝てるようになっていった。
そして1カ月後に全日本選手権で初優勝するんですよ
山中が初めて世界選手権に出場したのは、1963(昭和38)年に行われたプラハ大会だ。ナンバ一番に移籍して1年目、1962(昭和37)年度の全日本選手権でシングルス3位に躍進し、代表切符を手にした。
プラハ大会で団体戦の主力だったのは松﨑キミ代と関正子で、日本女子は4連覇を達成。「まだカバン持ち、洗濯係だった」と山中は言うが、女子シングルスでは4回戦で前回女王の邱鐘恵(中国)を3-0で破って実力を証明した。準々決勝ではアレキサンドル(ルーマニア)に敗れたが、ゲームオール19-21の激戦だった。
順調に見えた競技生活。しかし、翌64年の夏から秋にかけて、山中は心身の疲労の蓄積から重度のスランプに陥る。代表に選ばれた中国遠征では連戦連敗。「勝てないし、気持ちがいかない。もう卓球はやめようと思うくらい気落ちしていた」と当時を振り返る。