真説 卓球おもしろ物語12【卓球史の曲がり角、中国の台頭と用具制限】
〈その12〉卓球王国2021年6月号掲載
Text by
『マンガで読む 卓球ものがたり』の原作者で卓球コラムニストの伊藤条太氏による、卓球の歴史に隠された興味深い物語を紹介するこのコーナー。今回は、1959年世界選手権での中国の活躍と用具制限を紹介。日本では新しい打法が開発された。
参考文献:『卓球レポート』1959年11月号、1960年3月号、英国卓球協会会報「TABLE TENNIS」1958年11月号
写真:「写真で見る日本卓球史」(公財)日本卓球協会(平成15年)
日本のすぐ後ろに迫っていた中国
1959年世界選手権ドルトムント大会(ドイツ)は、二つの点で卓球史の大きな曲がり角となった。ひとつは中国の台頭だ。日本はこの大会で7種目中6種目に優勝したが、唯一逃した男子シングルスで優勝したのが、中国の容国団(ヨウ・コクダン)という21歳の若者だった。容国団はベスト8決定戦で星野展弥を破り、決勝では荻村伊智朗、村上輝夫を破って勝ち上がってきたフェレンツ・シド(ハンガリー)を破って優勝した。
日本男子は団体で5連覇を達成し、男子ダブルスで荻村/村上が優勝、混合ダブルスの決勝で荻村ペアと村上ペアが対戦し、その強さは盤石(ばんじゃく)に見えた。それが肝心(かんじん)の男子シングルスを中国に奪われたのだ。
それだけではない。日本は男子シングルスでベスト8に入ったのが荻村だけだったのに対して、中国は容国団、荘家富(ソウ・カフ)、楊瑞華(ヨウ・ズイカ)、王伝燿(オウ・デンヨウ)と4人も入っていた。中国は男子団体でも3位に入っており(準決勝でハンガリーに3ー5で敗退)、それは3大会連続の3位だった。女子団体も2大会連続の3位、さらに女子シングルスで邱鐘恵(キュウ・ショウケイ)、女子ダブルスで邱鐘恵/孫梅英(ソン・バイエイ)がともに3位に入っていた。中国は日本のすぐ後ろに迫っていたのだ。