真説 卓球おもしろ物語16【政治の荒波に翻弄される卓球界、ヨーロッパ復興のきっかけを作った荻村伊智朗】
〈その16〉卓球王国2021年10月号掲載
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卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。
今回は、1967年から1971年。強化の中心だった荻村伊智朗が去った日本卓球界は、協会会長の後藤鉀二が牽引(けんいん)。国内での軋轢(あつれき)も激しい中、後藤は世界選手権名古屋大会への中国参加へ向け、大きな決断を下した。
参考文献:『スウェーデン卓球 最強の秘密』グレン・オースト/イエンス・フェリッカ、
『米中外交秘録 ピンポン外交始末記』銭江、『ピンポン外交の軌跡』森武、季刊『卓球人』第5号
写真:「写真で見る日本卓球史」(公財)日本卓球協会(平成15年)
ヨーロッパ復興のきっかけを作った荻村伊智朗
中国が文化大革命のため欠場した1967年世界選手権ストックホルム大会は、日本が6種目に優勝した。日本が唯一、優勝を逃した男子ダブルスに優勝したのは、ハンス・アルセア/シェル・ヨハンソン(スウェーデン)だった。この種目でヨーロッパ勢が優勝したのは1957年のイワン・アンドレアディス/ラディスラフ・スティペク(チェコスロバキア)以来、10年ぶりのことだった。
彼らを育てた人物こそ、誰あろう荻村伊智朗だった。荻村は現役選手として男子団体5連覇を成し遂げた直後の1959年秋、スウェーデン卓球協会の要請で約3カ月半にわたってスウェーデンに滞在し、ナショナルチームの指導に当たった。
しかし、スウェーデン卓球界の古い考え方を変えることは容易ではなかった。合宿の初日、荻村が日本でやっているように準備体操とウォーミングアップを始めると、国内ランキング2位の選手が体操を止めて着替え出した。着替えが終わると荻村のところにやってきて「俺は卓球の選手だ。体操をしに来たんじゃない。週末の大会で俺とお前でどっちが強いか勝負だ」と捨て台詞(ぜりふ)を残して出て行った。当時のスウェーデンでは卓球のために体操をしたりトレーニングをする習慣がなかったのだ。2回目の合宿では人数が半分になり、3回目の合宿にはとうとう一人しか来なかった。それが17歳の少年アルセアだった。荻村はアルセアと二人きりで1日8時間もの猛練習を続けた。