[天才としての荻村伊智朗]「荻村、おまえは世界チャンピオンになった。それで満足なのか」と自ら記した
卓球王国2015年3月号掲載 <織部幸治(ITS三鷹代表)> 荻村伊智朗没後30年
「日本にはオギムラがいた」
不世出の天才、荻村伊智朗が亡くなって30年が経った。
我々がプレーし、目にする現在の卓球、ブルーの卓球台、11点制や、競技連盟として最多の226という国際卓球連盟への加盟協会数、選手のプロ化を促した賞金大会などは、実は荻村伊智朗のレガシー(遺産)である。
スポーツ外交官として、1971年のピンポン外交を裏で支え、南北朝鮮の統一チーム「コリア」を実現させ、パレスチナとイスラエルの卓球選手を同じコートに立たせた。
現役時代に「最速最強」の卓球を目指した荻村伊智朗は、その生涯をとてつもないスピードで駆け抜け、死を目前にしながらも、意識を失いながらもその身を卓球に捧げ、62歳で人生のゲームセットを迎えた。
日本に、いや世界に「卓球」という文化がある限り、「オギムライチロー」の名前はその歴史に永遠に刻まれる。
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荻村さんが選手指導をする時の特徴、それは行くべきところは教えるけれども、その行き方を教えないことだ
荻村伊智朗という人は天才だった、と思う。
選手としては二度世界チャンピオンになっている。日本卓球協会では実務のトップである専務理事(後に副会長)にもなっている。国際卓球連盟では会長になった。なぜ荻村さんはそれぞれでトップになったのか。荻村さんが天才であっても、それでもなおわからない部分、奥の深い「荻村伊智朗研究」をライフワークにしようと思っている。それによって、我々が学び、気づくことが多いからだ。そして、我々は次代の人たちへ荻村さんの生き方や発想を伝える義務がある。
私は中学2年から荻村さんが主宰するクラブ(青卓会)に入った。師弟関係の中で26年間、1994年に亡くなるまでそばにいたのに、亡くなってから荻村さんのすごさを考えるようになった。そばにいる時には畏怖の念を抱きつつ、同時にワクワクしていた。会うのは怖いけれども楽しみという存在だった。