真説 卓球おもしろ物語22【日本卓球界を襲った“卓球根暗ブーム”】
〈その22〉卓球王国2022年4月号掲載
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卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。
今回は、「卓球=ネクラ」というイメージが国内で広がっていた1980年代の物語。荻村伊智朗が1987年にITTF会長に就任。日本卓球協会はネクラのイメージ払拭(ふっしょく)のためのプロジェクトを始動した。
参考文献:城島充『ピンポンさん』(講談社・角川文庫)、荻村伊智朗『笑いを忘れた日』(卓球王国)、『関西学院大学卓球部六十年史』
卓球界の頂点に立った荻村伊智朗
1987年世界選手権ニューデリー大会(インド)で行われたITTF(国際卓球連盟)の総会での会長選で、荻村伊智朗が現職のロイ・エバンス(イングランド)を65対39の大差で破って第3代会長に就任した。日本人で初めての外来スポーツの国際組織の会長だった。
荻村は当時すでに会長代理の任にあり、エバンスが「あと1期(2年)やったら引退するからそれまで待ってくれ」と頼むのを聞かずに立候補した。立候補にあたって荻村は、当選したら最初の2年間で世界80カ国を回り、それぞれの国に合った卓球の発展モデルを一緒に考え、世界6大陸のどこからでも世界チャンピオンが出てくる下地(したじ)を作るという公約を打ち立てた。
一方のエバンスは20年間の任期中、アフリカを訪ねたのは1回、中南米には一度も訪問しなかった。それだけヨーロッパに偏(かたよ)った組織だったから、荻村のこの公約が、多くの卓球後進国の票を動かしたであろうことは想像に難(かた)くない。
会長になった荻村は、本当に2年間で80カ国を回った。あるときは2週間で10カ国、あるときは10日間で7カ国といった過密なスケジュールで、歓迎会やパーティーはせず、どの国でも最低8時間の会議を行って卓球発展のための議論を尽(つ)くした。荻村が会長就任からわずか7年後の1994年に肺がんで亡くなることを考えると、文字通り命を削るようにして卓球の普及に尽力(じんりょく)したと言える。
折しも1988年ソウル五輪からは卓球が正式種目に加わり、いよいよその普及に拍車(はくしゃ)がかかることが期待された時期に世界卓球界の頂点に立った荻村だったが、そのお膝下(ひざもと)である日本卓球界では危機的事態が起こっていた。卓球を地味で根暗(ねくら)なスポーツとして蔑(さげす)む風潮、いわゆる“卓球根暗ブーム”である。