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真説 卓球おもしろ物語25【日本卓球界を席巻する中国人選手たち】

〈その25〉卓球王国2022年7月号掲載

Text by

伊藤条太Jota Ito

卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。今回は1980年代後半からの日本の卓球界について。中国で活躍していた選手が、活動の場を日本に移し、日本卓球界の上位を席巻。あまりの強さに各種大会で制限が設けられたりしたが、強力な帰化選手たちによって、卓球ニッポンは復活のきざしをみせ始める。

参考文献:『トーク1』(何智麗)ヤマト卓球、『ピンポンさん』城島充、『TSPトピックス』1996年4月号(小山ちれ)

世界に爪痕(つめあと)を残した二人、齋藤清と星野美香

 1980年代は、世界の攻撃卓球の主流がペンホルダーからシェークハンドに移行した時代であるが、この時期、日本卓球史に残る傑出(けっしゅつ)した選手が登場していた。齋藤清と星野美香(現姓:馬場、EA〈JOCエリートアカデミー〉総監督)である。いずれもペンホルダードライブ型の左腕選手であった。
 齋藤は、当時の卓球人の多くがそうであったように、中学1年で卓球を始めた。全国中学校卓球大会、インターハイと優勝し、全日本選手権(以下、全日本)では1985年(昭和60年)に、藤井則和以来36年ぶりの4連覇を達成し、計8回の優勝に輝いた。水谷隼の10回に次ぐ大記録である。
 世界選手権には1983年から1993年まで11年間にわたって連続出場し、日本式ペンホルダーによる猛烈に切れたバックサービスと重いドライブで、中国の表ソフト前陣速攻とヨーロッパのシェーク両ハンドドライブに対抗した。1982年アジア競技大会銀メダル、1983年世界選手権ベスト8、1989年アジアカップ金メダルなどの成績を残し、1980年代の日本男子を牽引(けんいん)した。
 星野は当時としては珍しく早く小学3年で卓球を始めた。優れた身体能力と緻密(ちみつ)な戦術で、1983年に17歳で世界選手権に初出場し、1991年まで連続出場した。1988年ソウル五輪では石田清美との女子ダブルスで銅メダル決定戦まで進み4位に輝いた。
 全日本では1987年(昭和62年)に史上初の5連覇を達成し、7回の優勝を誇った。全日本学生選手権(以下、全日学)では、1987年(昭和62年)に女子全日学史上ただひとりの4連覇を記録している。
 日本の卓球がその古いスタイルで世界から取り残されていたこの時期、破格の素質と努力で世界に立ち向かい、爪痕を残した偉大な二人であった。

全日本チャンピオン8回、1989年アジアカップ優勝の齋藤清。1980年代の日本男子を牽引した

全日本チャンピオン7回、1988年ソウル五輪女子ダブルス4位の星野美香。1980年代の日本女子の支柱として活躍した

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