
[偉関晴光&絹子]「中国を越えるために頑張っている。やる気を与えてもらっている」
卓球王国PLUS独占インタビュー Vol.3
近くて遠い日本と中国。
中国をルーツとし、中国で卓球を身につけ、世界を極めた韋晴光は新婚の妻、石小娟をともなって、日本に降り立った。「2、3年いたら中国に帰るつもりだった」(晴光)、「せっかく来たんだから長く日本にいたかった」(絹子)。二人は熊本の地で暮らし、子どもも生まれ、そして日本国籍を取得した。
偉関は全日本チャンピオンになり、日の丸を付けて五輪代表にもなった。しかし、所属していた会社は倒産し、アキレス腱断裂と不幸な出来事も続く。
波乱万丈。大きな山も小さな山も二人は乗り越えてきた。今、34年の日本での人生は中国にいるときよりも長くなり、乗り越えてきた山々は振り返れば、壮大な景色のほんの一部でしかない。
過ごした年月の分だけ、偉関晴光と偉関絹子には語るべきことがある。

interview by
今野昇Noboru Konno

ある日、5台全部使えるようになった時に、私は本当に思わず声を立てて笑っちゃったんですよ(笑)
●─2004年以降、そのあとはコーチになりますね。
絹子 スーパーサーキットも少しずつ少なくなっていって自然と終わった。それでコーチになろうと。晴光は青森山田でコーチをしたり、2007年の秋田国体の代表として秋田で練習をしていました。生活はどうにかなった。
●─その頃絹子さんは?
絹子 私は文章を書いたり、あとは育児ね。展嘉が中国語が話せなかったから中国の小学校に1年間くらい通わせました。私は中国と行ったり来たり。展嘉も卓球をしていた。東京にはあまりクラブがなくて、結局、新子安の日産ジュニアに行っていました。そこで中国に連れて帰って、中国の小学校に行かせて……。そのあと、2009年に卓球場を作りました。卓球場(偉関TTL)は計画的ではなく流れで作った感じですね。