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【PickUpプレーヤー】坂田陽哉:転機は高校2年の国体。「植木先生には感謝しかない」

卓球王国2025年7月号掲載
坂田陽哉●駒澤大

卓球を始めたのは5歳。最初は左のペンでプレーしていました

 両親が卓球をしている姿を見て、「やりたい」と思ったのがきっかけで卓球を始めました。始めたのは幼稚園の年長、5歳くらいの時です。

兄弟は4人で、5つ上の兄、2つ上の姉、4つ下に妹がいます。今は一番上の兄は卓球をやめてしまいましたが、最初に卓球を始めたのは兄でした。その兄が小学4年生の時に自分も少しやってみたのが、卓球との最初の接点でした。

最初はクラブチームには入らず、自分が小学校に上がるタイミングで、兄と姉と一緒に「ヒロタクスポーツ」に通うようになりました。監督の飯村敏文さんが卓球の楽しさを教えてくださいました。また当時クラブでは週3回の練習があり、父の仕事終わりや週末にも練習していましたね。幼少期からかなり卓球に時間をかけていたと思います。

卓球の楽しさを教えてくれたという飯村監督からアドバイスを受ける坂田

クラブチームの練習は比較的自由でした。普段は優しい父ですが、卓球となると熱が入って厳しくなる一面もありましたね(笑)。でも、父と卓球を始めて1年で全国大会(全日本ホープス・カブ・バンビ)に出場することができ、「これで強くなれるなら」と思って、必死に取り組みました。自分はもともと左利きでしたが、父が右のペン表だったこともあり、最初は右と左の両方でやっていました。左のほうがダブルスでは有利、ということで、左のペンホルダーでプレーしていましたが、幼稚園の頃は手が小さく、グリップが握っていて痛かったため、シェークに持ち替えました。兄も右のペン表でプレーしていました。ご飯や文字を書く時は右利きですが、左でもできるので、たぶん両利きだと思います。卓球は器用にできないのに、そういうところばかり器用でしたね(笑)。

小学生時代は3年生以外、毎年ホカバ(全日本ホープス・カブ・バンビ)に出場しました。同学年には飯村(将史/明治大)や烏田(東/専修大)といったライバルがいて、特に烏田選手とは2年生の頃から県1位を争っていました。小学生の頃は勝てていましたが、中学に上がってからはなかなか勝てなくなりましたね。

幼少期の坂田。2017年度の全国ホープス団体ではベスト8に入った

転機は高校2年の国体。そこで大きく変われた

 中学は地元の安西中に通い、練習はクラブチームで行っていました。たまに部活にも顔を出していましたが、周囲は初心者ばかりで、自分が行った時には少し教えたりもしていましたね。中学1年目には全中に出場しましたが、2年目はコロナで大会自体が中止。3年目は予選で敗れ、出場は叶いませんでした。

 高校は遊学館に進学。中学1年時に合宿に参加させてもらい、きつい練習も昔から好きだった自分は、「ここで本気でやれば絶対強くなれる」と感じました。また、監督の植木(大)先生がとても熱心な方で、中学2年生の頃にはすでに「遊学館高校に行きたい」と思うようになっていました。1年生の時点で心は決まっていましたね。

親元を離れることは寂しさもありましたが、「強くなるためには厳しい環境に挑戦するべき」と考えました。最初はお父さんやお母さんに頻繁に電話していました。ホームシックもありましたね(笑)。

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