
[クローズアップ]近藤先生、逝くのが早すぎますよ。
卓球王国2025年10月号掲載
勝負師から伝道師になった近藤欽司、天国へ旅立つ
地元・神奈川でのWTTチャンピオンズ横浜を楽しみにしていた近藤欽司さんが7月22日に逝去された。
長く高校卓球界で指導者として活躍、同時に日本代表の監督を務めた「名将」の突然の死に卓球関係者は悲しみに包まれた。
日本卓球界へ多大な貢献をされ、卓球の魅力を多くの人に伝えてきた近藤欽司。
天国でも「ピンポン暇なし」で指導をしているに違いない。

Text by
今野昇Noboru Konno

生真面目で、努力家。ユーモアがあり、明るく、義理堅い。それが「近藤先生」の姿だった
それはあまりにも突然の訃報だった。
元全日本女子代表監督の近藤欽司さんが、7月22日に逝去された。82歳だった。亡くなる2日前までラケットを握っていたという。教員を定年退職した後も、周囲の人々は変わらず「近藤先生」と慕い続けていた。
卓球王国では、2冊の書籍『夢に向かいて』『魅せられて、卓球』を上梓していただいた。本の執筆過程でも、誠実で細やかな仕事ぶりが印象的だった。
生真面目で、努力家。ユーモアがあり、明るく、義理堅い。──それが「近藤先生」の姿だった。
愛知県知立市に生まれ、名電高校に進学。厳しい練習を積み重ね、高校3年時にはインターハイ団体優勝を果たした。大学進学を希望していたが、優勝メンバー4人が日産自動車へ進むことになり、自らも日産に入社。卓球部で4年間活動したのち、退職。指導者を志していた近藤は、京浜女子商業高校(のちの白鵬女子高校)で指導を続けながら、法政大学の夜間部に通い、教員免許を取得。24歳で教諭となった。