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【People】藤井佳子[選手・主催者の双方向からクラブ卓球の未来を考える]

卓球王国2025年10月号掲載 藤井佳子[日本卓球協会クラブ委員長]

クラブ卓球を愛する“草の根”出身の委員長

 草の根プレーヤーたちにとってのあこがれの舞台、全日本クラブ選手権。その大会の運営手法や将来的な展望などを話し合う(公財)日本卓球協会クラブ委員会の委員長を2年前から務めているのが、藤井佳子だ。

中学1年で競技を開始。高校・大学でやり込み、国体代表にまで成長

 藤井は中学1年生の時、友人に誘われて卓球部に入った。「市大会で上位にも行けない」レベルのチームで3年間を過ごし、取手二高へ進んだ。当時、同校の卓球部には熱心なコーチや先生、OBなどがいて、そこで藤井の選手としての活動は本格的にスタートしたという。ほぼ初心者同然の状態から、3年時にはダブルスで茨城県ベスト4、シングルスでもベスト16まで進むくらいのプレーヤーになった。

 進学先として選んだのは日本体育大。「元々体を動かすのが好きで、好きな教科を聞かれたら、迷いなく『体育!』と答えるくらいでした」という藤井は、一般受験生として日体大に入学し、卓球部に所属した。

 当時の同大学の卓球部は、関東学生リーグ2部で優勝争いをするレベルの強豪チーム。スポーツ推薦で入学していて、インターハイでも上位に進出した実績を持つ力のあるチームメイトたちにもまれながら、藤井は毎日たくさんの練習を積んだ。

 「基本的には『レギュラーの練習相手』でしたが、そこで基礎力や応用力がつきました」(藤井)

 大学3・4年の頃には茨城県の国体代表になり、全日本学生選手権にダブルスで出場するなど、一角の実力者となっていた。

1983年、日体大在学時に東京選手権に出場した時の藤井(右)。ダブルスパートナーは川上あゆみ

大学卒業後も選手活動が発展。全日本クラブ選手権出場が「ステータス」に

 大学卒業後は、地元の茨城に戻ってしばらく教職に就き、全国教職員選手権に出場して団体戦やダブルスで優勝。1990年には、全日本クラブ選手権の女子シングルス(1986年の第5回~1999年の第18回まで開催されていた個人戦)で3位となり、全日本クラスの大会で初入賞。1994年には、全日本軟式選手権で後に夫となる慎一と組んだ混合ダブルスで5位となり、「努力をすれば高校時代に無名でも全日本の試合で入賞できるようになるんだ!」という経験を得た。

1990年の全日本クラブ選手権で、女子シングルス3位となった藤井。これが自身初の「全日本」大会入賞だった
1994年、全日本軟式選手権の混合ダブルスで5位入賞した藤井(右)。パートナーは後に夫となった慎一

 全日本クラブ選手権にも茨城県代表として幾度となく出場した。現在、藤井が所属する「瑞穂クラブ」は、夫の慎一が立ち上げて27年になるが、その間、全日本クラブ選手権の女子で、1部ベスト8、2部準優勝の好成績を残している。

 「男女一緒のチームで、主人やその仲間たち、私のチームメイト……みんなが『大家族』みたいな形で一緒に行動して、大会に出るのが毎年の楽しみでした。クラブ選手権に出るのは、一種の『ステータス』だと思っていましたね」

2001年、第20回の記念大会に出場した時の瑞穂クラブ集合写真。まさに「大家族」の雰囲気だ。会場は長野のエムウェーブ
2006年、第25回大会に出場した瑞穂クラブ。藤井(左から3人目)の右は、長女の優香さん(当時8歳)

日本卓球協会クラブ委員会の委員に推挙され、運営の実態を知

 そんな藤井に突如、(公財)日本卓球協会からクラブ委員会への委員就任の要請が来たのは2003年。夫の友人による推薦で、女性委員を求めていた協会のニーズに合致する人材、という話だった。

 「最初は年1回の会議に出席して、『話を聞いて帰ってくるだけ』という形でした。不甲斐ないな、という思いで過ごしていました」

 その後、2015年には長年の経験を買われて副委員長に推挙され、就任。ここで初めて藤井は、全日本クラブ選手権開催中に会場内で行われる「小委員会」に出席し、この大会の運営面での問題点を肌感覚として知ることになる。

 「選手として出場しながら、その合間を縫って会議に出ていたのですが、これはただ出ているだけでは済まされない大会なんだと知りました。

 とにかく試合が終わらない。参加チーム数が多すぎて、最終試合が21時、22時になるのが当たり前みたいになっていました。何ができるだろうと思って、タイムテーブルを自主的に大会後に作り直してみたこともありました。

 また、当時は『2部』というカテゴリーがあり、そこでは全国大会出場経験があるなど選手に参加制限が設けられていたのですが、その規約をよく理解せずに参加した選手が多数いました。それを大会終了後に関係者から告発されたチームが、優勝や入賞の記録を取り消されるという事態が続出し、協会から問題視されていたのです」

 そうした問題を解決するため、委員会では2部を廃止して年齢別の部を設けることが参加要件をクリアにするには必要だと議論され、協会上層部から指導のあった予選通過チーム数の大幅削減に対しても、承認することになった。

2023年全日本マスターズのローシックスティでは3位に入った藤井。まだまだ現役プレーヤーとしても活躍している

委員長として「草の根精神」と「運営の持続可能性」の両立に挑む

 2023年には、クラブ委員長となった藤井。参加者にとっては年々、窮屈になっていくようにも思われるクラブ選手権の今後のあり方について、次のように語ってくれた。

 「普段から地域の同じチームで一緒に練習している仲間が、『クラブ選手権を目指して頑張るんだ』という目標になる大会であり続けることは、大会創設時からの理念として、とても大事だと思っています。

 一方で、主管地の負担をどう減らすかも非常に重要。試合に参加するチームが増加し続けると、タイムテーブル的に1日に可能な試合数を超えて試合を行うことになり、終了予定時間をオーバーしてしまう。そのことが、以前から選手・役員、両者の負担になっていました。

 ですから、大会規模を縮小し、どこの都道府県の体育館でも行えて、夜遅くまで選手が試合を行ったり、役員が運営で深夜まで残ったりということがないように、大会を変えていくことは避けられないのです。

 ただ、そのように本大会のダウンサイジングは避けられないと思いますが、代わりにブロック大会を新設するなど、全国代表になれなかったチームのために活躍できるステージを用意してあげられないだろうか、ということも考えています」

2025年の全日本クラブ選手権の様子。このマンモス大会を継続していくためには、関係者の知恵と工夫、参加者の理解と協力が不可欠だ

 藤井が大会の運営に初めて携わったのは、高校生の頃。母校の取手二高で毎年行われていた大会で、卒業後もその大会の運営や組み合せの作成を経験をしたという。「その原体験は現在でも、クラブ委員会や茨城県連盟の仕事に生かされていますね」(藤井)。

 参加者としての楽しみと、運営側の苦労の両面を知る「草の根卓球人」藤井。彼女ならではの舵取りに、大いに期待したい。

(文中敬称略)

■ PROFILE ふじい・よしこ
1962年11月11日生まれ、東京都中央区出身。旧姓・鈴木。茨城・取手二中で卓球を始め、取手二高、日体大で腕を磨く。卒業後もプレーを続け、現在は瑞穂クラブ(茨城)所属。地域では指導者としても活動中。2003年より(公財)日本卓球協会クラブ委員会委員、15年より同副委員長、23年からは同委員長を務めている