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【People】阿部凱人「我慢強く、粘り強く育て。子どもたちを導き続けた40年」

卓球王国2025年11月号掲載
文=柳澤太朗 Text by Taro Yanagisawa

 深い山々に抱かれた長野県伊那市にある小・中学生の卓球クラブ「伊那少年卓球クラブ」。その監督を40年以上も務めてきたのが阿部凱人だ。自らを「昭和の男」と語る阿部の指導哲学は、令和の今こそ我々の心に響く。

卓球はプレーする人の精神力が問われる
粘れば粘るほど勝てるところがある

 1940年11月5日、長野県伊那市に生まれた阿部凱人。どちらかというと今風(いまふう)に感じる「凱人(かつと)」という名前は、日中戦争にも従軍した父が「日本に勝ってほしい」という願いを込めてつけたのだという。
 
 卓球を始めたのは比較的遅く、長野・伊那北高校に入部してから。それでも中学時代には陸上の走り高跳びもやっていたという身体能力を活かし、台から下がらずにオールフォアで戦うスタイルで、メキメキと力をつけていった。高校3年時には県学校対抗で優勝し、ダブルスでも3位に入ってインターハイに出場するほど卓球に打ち込んだ。

 「プレーする人の精神力が問われるスポーツ。より粘り強く、粘れば粘るほど勝てるところがある」。それが卓球というスポーツの魅力だと阿部は言う。だから子どもたちを指導するようになっても、卓球を通じて我慢強く、粘り強い人間に育ってほしいと願った。そうして培った精神力は、社会に出てからも必ず役に立つからだ。

この40年で一番良かったことは、
たくさんの大会があったけれど、無事故で済んだこと

 高校卒業後は地元の伊那信用金庫に就職し、国体や全日本実業団、全日本社会人・年代別(現:全日本選手権マスターズの部)の長野県代表として活躍した阿部。

 今年8月に退任するまで、監督を務めた伊那少年卓球クラブが発足したのは1984(昭和59)年のことだ。阿部は当時、上伊那卓球連盟の理事長を務めていたが、地域の子どもたちを育成・強化しようという話が持ち上がり、当時小学4年生だった次男の隆広をはじめ、数人の子どもたちを指導するようになった。

 それから40年余りで、卒業生はおよそ250人。全国ホープスでは92年大会で女子ベスト8、09年度全日本女子ベスト16の小林泉ら強豪選手も巣立ったが、「なかなか上達できない子もクラブの一員。プライドを傷つけないよう、平等に接することを常に心がけていた」と阿部は言う。

伊那少年卓球クラブは1992年全国ホープスで女子ベスト8に入賞。
右から2番目の小林泉は、後に2009年全日本選手権で女子シングルスベスト16に入った

 伊那少年卓球クラブにはさまざまな「きまり」があるのも特徴だった。両親や家族に車で送迎してもらう時は、乗る時に「お願いします」、降りる時に「ありがとうございます」とお礼を言う。練習場や会場に出入りする時は必ず挨拶をして、上履きは下駄箱にきちんと揃える。学校の宿題を終わらせなければ、練習には参加できない。それらはすべて「社会で通用する人間になるように」という願いからだった。

 勤務していた伊那信用金庫では理事長という要職も務めながら、すべてボランティアで、多い年には年間290日をクラブのために費やしたという阿部。この40年間で一番良かったのが「たくさんの大会があったけれど、無事故で済んだこと」というのが阿部らしい。長野県は南北に長い県で、県内の移動にも時間がかかるが、車での移動時にも大事故にならないよう高速道路は使わず、時間がかかっても一般道で移動した。

今の子どもたちの指導では、人間的な成長が置いてけぼりになっている
ことが多いように感じます

 クラブのOGで、(公財)日本卓球協会の広報委員長を務めている上島慶は、「監督を怖いと思ったことは一度もありません。すべて愛情の裏返しだというのは、子どもながらに感じていました」と当時を振り返る。

 「指導者というより教育者ですよね。監督は卓球をレベルアップさせたいという思いはもちろんあるけれど、根底にあったのは『卓球を通じて人間を作る』ことだったと思います。私も大学院時代に子どもたちを指導したことがありますが、卓球を通じて子どもたちに残せるものは何かと考えた時、戻ってくるのはいつも伊那少年卓球クラブで学んだことです」(上島)

 長野県レディース卓球連盟の会長を務めた妻・恵子もコーチとして、面倒見が良く明るい性格でクラブを支えてきた。小さい子どもたちに多球練習で根気強く球出しをして、フォームを作っていくのは主に恵子さんの役目。「夫が厳しく教えて、私がなだめる感じでずっとやってきましたけど、ここ何年かは子どもたちの意識も甘くなっており、私も厳しく指導しています」と笑う。

 クラブではクリスマス会や焼肉会など楽しめる行事も作り、時代に合わせて指導のスタイルも少しずつ変えてきたが、阿部は「今の子たちは『楽しければいい』というところがあって、我慢や苦労の先にある充実感になかなかたどり着けないよね」と少し寂しそうに語る。

 「今の子どもたちの指導では、人間的な成長が置いてけぼりになっていることが多いように感じます。『自分だけ良ければいい』という子どもにはなってもらいたくない。自分が試合に出て勝てるのも、送迎してくれる両親や、指導してくれた監督やコーチ、先輩たちのお陰でもあるし、さらに大会を運営してくださる方々もいる。そういう方々への感謝の気持ちを持つようにと常々言っています」(阿部)
 
 阿部が指導した子どもたちが親となり、コーチとしてクラブの歴史を引き継いでいく。クラブの名前は変わるかもしれないが、これからも周囲への感謝の気持ちを持つ子どもたちが育つクラブであり続けてほしいと、「昭和の男」は願っている。

2024年に創立40周年を迎えた伊那少年卓球クラブ(写真は2024年時)。
中列左端が阿部、右端が妻・恵子

Profile あべ・かつと

1940年11月5日生まれ、長野県出身。伊那北高でインターハイ学校対抗・ダブルス出場、伊那信用金庫に入庫後も全国大会で活躍。1984(昭和59)年に伊那少年卓球クラブを発足させ、92年全国ホープス女子ベスト8などの成績を残し、今年8月に監督を退任。長野県卓球協会副会長、上伊那卓球連盟会長などを歴任した