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「荻村伊智朗」という生き方「卓球選手として素質がない」と言われた 

異常とも言える集中力。「笑いを忘れた日」から3年で世界一に駆け上がる

卓球王国2006年3月号より<後編>  

1952年世界選手権ロンドン大会、大会後の荻村伊智朗

Text by

藤井基男Motoo Fujii

ふじい・もとお
卓球史研究家・世界選手権メダリスト、全日本コーチ、日本卓球協会専務理事などを務めた。2009年に逝去された

中国の子どもに指導する荻村。世界を飛び回り卓球の普及に力を注いだ

「卓球選手として素質がない」と言われた高校時代。練習と工夫で、12個の金メダルを獲得する 

 12個の金メダルを獲得した偉大なる選手、数多くのチャンピオンを育てた指導者、「51%理論」「ハイリスク・ハイリターン戦術」などの独創的な理論を展開した稀代の卓球理論家、統一コリアなどの歴史的なスポーツ事業を成し遂げた卓球外交官、数多くの著書を残した文筆家などの多彩な顔を持っていた荻村伊智朗。1987年には国際卓球連盟の三代目の会長に就任。怜悧で明晰な頭脳、巧みな英語、革新的なアイデアで世界の卓球界、そして日本をリードした。

 しかし、就任後1年間で80カ国を訪問するなど、その苛烈な殺人的スケジュールを自らに課した。そして1994年1月に検査入院し、家族は余命3カ月と告げられる。「本人も癌の影には気づいたと思います」と時美夫人は語る。その後、本人にも告知されるのだが、それでも病院からイベントや講習会などに向かい、亡くなる直前までその身を卓球に捧げた壮絶な生き様だった。藤井基男さんに「荻村伊智朗」についてつづってもらった。

◇◇

荻村伊智朗の「朗」について――。

   朗 には、明るいこと、ほがらかなこと、などの意味がある。(以下、敬称を省略)

 荻村は明るい性格であったか。ほがらかな人物であったか。接する人、接する時期によって、印象や見方が分かれるようだ。同時代にプレーヤーとして、しのぎをけずり合った人たちから見ると、少し暗いイメージ。特に、昭和27年度(52年)全日本選手権の東京予選で負けて「笑いを忘れた日」と日誌に書き、集中した競技生活を追い求めていた頃は、そうだ。現役を退き、晩年に近づくほど器の大きな人間に成長したが、その頃に 荻村卓球教室 で教わった人びとにとっては、明るく、やさしく、憧れの人――という見方が多いことが『荻村さんの夢』※(以下、 本 という)で 元生徒さんたち が証言しているところである。

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