ニッタク 101年目のラブオール〈アーカイブ・前編〉
卓球王国2021年3月号掲載
写真=江藤義典 photographs by Yoshinori Eto
写真提供=ニッタク photo courtesy of Nittaku Co., Ltd.

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2020年に創業から100周年を迎えた、『ニッタク』ブランドの日本卓球株式会社。原点であるボールの製造にこだわりながら、総合卓球メーカーとして成長してきた。節目の年を越えて見据えるものは、新たなる100年への道筋だ。
当時はラグビーボールのような楕円形のボールを作り、時間が経つときれいなボールになるすごい技術があったらしいです(北岡功)
1920(大正7)年、欧米各国の租界(居留地)が発展し、「東洋のパリ」ともてはやされた中国・上海。きらびやかな魔都の片隅で、小さな卓球のボールを扱うひとつの会社が産声をあげた。
その名は『ハーター商会』。中央セルロイドという会社から事業を継承し、ハーター商会を設立したのは、「ニッタク」ブランドで知られる日本卓球株式会社の創業者、向原関一だ。
宗教大(現・大正大)の学生だった千々和宝典が、遊戯の印象が強かったピンポンを『卓球』と命名したのは1918(大正5)年。ニッタクの歴史は、競技スポーツとしての卓球の歴史と歩みを同じくする。
終戦後の1947(昭和22)年、関一は社名をハーター商会から日本卓球株式会社に変更。日本の卓球を背負うそのストレートな命名は、卓球専門のメーカーとして生きる決意の現れだった。関一が自ら毛筆でしたためた「Nittaku」という英字のロゴが、ニッタクブランドの出発点となった。ニッタクのボールは東京・荒川区の尾久、葛飾区の堀切にあるふたつの工場で生産されていく。
「当時の話では、セルロイドのボールを作るメーカーは20社以上あったそうです。それでもボールはいつも品薄で、祖父の会社でも残業のない日はないくらい、毎日ボールを作り続けていたと聞きます」。ニッタクの3代目社長で、関一の孫に当たる北岡功会長はそう語る。景気の良いボール業界の中で、ニッタクは当初、下から数えたほうが早い存在だった。しかし、戦後に「雨後の筍」のように増えたボールのメーカーは、次々に姿を消していく。
現在の機械化されたボール製造とは違い、当時のセルロイドボールの製造は職人仕事。生地を円形に打ち抜き、半球に成形して接着する方法は今に受け継がれているが、接着するつなぎ目を均一の厚さにするため、湯煎しながら押すことで厚さのバランスを取っていたという。指先の感覚頼みの世界だった。
「当時は接着のつなぎ目を中心に、ラグビーボールのような楕円形のボールを作り、それが時間が経つことで縮まってきれいなボールになるというすごい技術があったらしいです。最初から球体を作ってしまうと、経時変化で逆にバランスの悪いボールになってしまう可能性があるからです」(北岡)

1947年10月、ニッタクはB5版4ページの『ニッタクニュース』創刊号を発刊している。おそらく、世界最古の卓球に関する定期刊行物である。

