世界メダリストの肖像。倪夏蓮「世界で優勝した人というのは、ある程度自分の好きな道を選ぶことができる」〈前編・アーカイブ〉
卓球王国2022年3月号掲載
写真=浅野敬純/柳澤太朗/レミー・グロス
Photograph by Takazumi Asano ,Taro Yanagisawa & Rémy Gros

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2021年11月の世界選手権ヒューストン大会で史上最年長のメダリスト(女子ダブルス)となった当時58歳の倪夏蓮(ニィ・シアリエン)。左ペン表の速攻スタイルで、中国選手権で2位となるも、世界選手権の代表を勝ち取るために用具を粒高に変更。中国代表として1983年に出場した世界選手権で団体・混合複の2個の金メダルを獲得した。
1989年にドイツ、翌年ルクセンブルクに移り、ヨーロッパ選手権で優勝するなど活躍。世界の卓球界で異彩を放つペン粒高攻撃プレーヤーはチャーミングな「中年のヒロイン」だった。
中国2位になった後に表ソフトから粒高に変更。「もしダメだったら、私の卓球人生は終わりになる」(倪)
日本風に言えば、当時、還暦間近の58歳の倪夏蓮だが、その変わらぬ強さの源は一体何だろうか。その後、61歳にしてパリ五輪に出場する、シニアのスーパースターだ。 世界選手権史上、最高齢のメダリストとなったルクセンブルクの倪夏蓮。パートナーは子どもの頃から家族のように接し、一緒に卓球をやってきたサラー・デヌッテ。人口60万人ほどの小国からの世界メダリストの誕生に国中が沸いた。
2021年7月と12月の2回のインタビューをまとめたものを掲載する。
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●ーあなたは中国代表として1983年の世界選手権東京大会で女子団体と混合ダブルスで優勝しました。初の世界選手権でしたね。
倪夏蓮(以下:倪) 私は上海で生まれ育ち、14歳の時に上海の代表チーム、 1979年、16歳の時に中国の国家チームに入り、83年東京大会が初めての世界選手権でした。85年世界選手権イエテボリ大会にも出て、女子ダブルスで準優勝、混合ダブルスで3位だったけど、中国では優勝しなければ成功したとは言えないわね。
●ーいつから粒高ラバーを使い始めたのですか?
倪 79年に国家チームに入った時は表ソフトの速攻型でした。そのプレースタイルで全中国選手権で2位になったけど、首脳陣は私の力はまだ十分でないと思っていた。81年の世界選手権ノビサド大会にも出場するチャンスがあったけど、出られなくて、私はがっかりしたんです。担当コーチではなかったけど国家チームのコーチだった周蘭孫(ジョウ・ランスン)が、アドバイスをくれました。私の速すぎる卓球を少しスローダウンさせるために粒高を使うのはどうだろうと言ってくれました。

