ロゴ画像
卓球王国PLUS > コラム > この人は卓球メーカーの社長だったんだろうか。「もう一度、北岡さんに会いたい」
記事見出し画像

この人は卓球メーカーの社長だったんだろうか。「もう一度、北岡さんに会いたい」

卓球王国PLUS独占記事

2026年7月15日、日本卓球株式会社の79回目となる創立記念日に、北岡功さんが天国へ旅立たれた。気さくでいつも笑い声が絶えない「ニッタクの社長さん」。 お酒が好きでカラオケも大好き。しかし、ひとたび仕事の話になれば、真剣で厳しい表情を見せる方でもあった。卓球メーカーやショップ、協会関係者など、誰もから愛された北岡さん。その温かなお人柄を、あらためて偲んでみたい。

2021年の北岡さん
Text by
今野昇Noboru Konno

スポンサー撤退の声が上がったときに真っ先に反対してくれた北岡さん

2026年7月20日に神奈川県藤沢市で日本卓球株式会社(ニッタク)前社長の北岡功氏のお通夜が行われ、多くの関係者、知人が訪れた。そして翌21日には告別式がしめやかに行われた。

考えてみれば、そんなに何度も食事に行ったり、お酒を飲んだり、お茶した間柄でもなかったかもしれない。でも、私は北岡功という人が好きだった。 2026年7月15日、彼は検査に行った病院で倒れ、亡くなった。75歳。まだ若いと言うべき年齢だった。

北岡さんと濃密な時間を四六時中ともにしたわけではない。しかし、だからこそ、ふとした瞬間にこの人の「裏の顔」を見た気がするのだ。この場合の「裏の顔」というのは、「素の部分」や「本性」と意訳するべきものだが、私にとっては最大の尊敬の念を込めた「裏の顔」である。

卓球王国WEBにも書いたが、創刊の頃、スポンサー撤退の声が上がったときに真っ先に反対してくれたのが北岡さんだった。「卓球業界のために書店売の雑誌は必要です」と社内でも主張し、当時の向原一雄社長のスポンサー撤退の意向を翻意させてくれた。 その大局的な視点は、それから20年以上経って、私が「『春のメーカー展示会』ではなく、一般の卓球愛好者も見に来たり、試打もできるような一大卓球イベントをやりませんか」と相談した時も同様だった。日本卓球株式会社(ニッタク)の損得を気にするよりも先に、「それはおもしろい、やりましょう」と言ってくれたのだ。コロナ禍に突入しなければ、あのイベントは実現していただろう。

卓球業界において大きな視座を持ちながら、一方でニッタク愛も激しく燃えたぎる人で、ブランドを守る時には覚悟を持って守ろうとした。 ある全日本選手権でニッタクの契約選手が優勝した時のこと。その選手のフォア面のラバーが他社製のものだった。卓球王国のランキングプレイヤー一覧ではすべて実名の商品名を表記していたため、「今野さん、それは困る。商品名を入れないでほしい」と北岡さんに粘られた。北岡さんとしては、契約選手が自社製品を使ってくれない悔しさがあったはずだ。さりとて、すぐに契約を切るわけにもいかない。でも、他社製を使っていることが公表されたらまずい……。何度もやり取りを重ね、最終的にはこちらも妥協するしかなかった。ただ、そのやり取りの中で、彼はスポンサーの立場を盾(たて)に恫喝(どうかつ)するわけでも、汚い駆け引きをするわけでもなく、常に真摯に話し合ってくれた記憶がある。

卓球王国が新宿御苑にオフィスを構えていた頃には、夕方にフラッとやってきて「カラオケ行きましょう」と夜の街に繰り出し、ネクタイをハチマキにしてマイクを握りしめる――そんな昭和の営業マンのような姿を見せる北岡さんは、いつも楽しい人だった。

2009年、卓球王国のヨーロッパ取材に、北岡さんと国際卓球の臼田豊社長が同行することになった。行きの飛行機の中、非常口前の足を伸ばせる席で私がゆっくりしていると、臼田さんが「今野さん、おれと北岡さんの間の席が空いているから一緒に飲もうよ」と誘ってきた。まるで居酒屋のノリで連れて行かれたのである。 そこでの会話で、臼田さんは「ニッタクさん、もっとかっこいい広告やウエアを作らなければだめだよ」と盛んに言い、私も「もっとイメージを変えましょうよ」と畳み掛けた。北岡さんは一生懸命に耳を傾け、時に持論を戦わせながらも、3人のオヤジが飛行機の中で酒を酌み交わす。周りの乗客にはさぞ迷惑をかけたのではないかと、今となっては恥ずかしい限りだ。 

あまりに飲み続ける3人に、さすがにCA(客室乗務員)がやってきて、「お客様、機内ではアルコールの回りが早くなりますのでお気をつけください。次のご注文を最後にされてはいかがでしょうか」と促された。するとすかさず、北岡さんは「そうですね。本当にすいません。最後にしますので、その最後の一杯は特別濃いめのウイスキーでお願いします」と言い放った。あの言葉と光景は今でも忘れられない。まさに「ザ・キタオカ」だった。

2000年、ニッタクの社長の就任した頃の北岡さん

ヒットラバー『G-1』は、北岡さんの執念の交渉の結実。商談の席で見せた厳しい目、そして圧倒的な判断力

このヨーロッパ取材は、私を含めて卓球王国の取材班が3人、ニッタクからは北岡さんお一人、国際卓球からは臼田さんと富田さんというメンバーだった。南ドイツのホーフハイムにある世界最大のラバーサプライヤー・ESNの取材を皮切りに、大手ホールセラーのショーラ&ミッケ(アンドロの母体)訪問、ブンデスリーガの観戦などがスケジュールに組まれていた。 

北岡さんにとって最大のミッションは、ESNの訪問と商談だったのだろう。商社を介さずにニッタクとESNとの直接取引がスタートした時期であり、北岡さんはESNの当時のゲオルグ・ニクラス社長と膝を突き合わせて、新しいラバーの開発と供給についてタフな交渉を繰り広げた。翌年発売され、のちに不朽の名作と呼ばれることになる『ファスタークG-1』は、この時の北岡さんの執念の交渉が結実したものだ。商談の席で見せた彼の厳しい目、そして圧倒的な判断力もまた「ザ・キタオカ」だった。 一方で、夜の食事会になれば楽しく会話が進み、国境を越えてもなお、北岡さんの陽気な人柄が食卓を明るく照らしてくれたことを覚えている。

2011年の東日本大震災の際にも、真っ先に被災地に駆けつけ、現地の卓球専門店の方々を励まされたのは北岡さんだった。あとで知ったことだが、ニッタクという会社のルーツ、そして北岡さん自身も東北、ひいては東日本への思いが人一倍強かったのだ。それはメーカーの社長という枠を超えた、「北岡功」という人間の人情の発露だった。これもまた「ザ・キタオカ」である。北岡さんが多くのショップやチーム、協会を精力的に回っているという話は、会社側が公式に発信したわけではなく、被災した現地の人々の口コミから伝わってきたものだった。
卓球メーカーの社長とはいえ、被災した卓球ショップや協会を訪れる姿は「人間・北岡功」そのものだった。

「戻る気持ちはなかったけれど、ニッタクを建て直さないといけない」

2023年に会長職から社長に復帰されて間もなく、ニッタクを訪問して打ち合わせをする機会があり、ミーティング後に食事をご一緒した。外でタクシーを待っている際、二人だけで少しばかり立ち話をした。 「いろんなことがあったとしても、ぼくは北岡さんが社長に戻ってきてうれしいですよ」 そう伝えると、北岡さんは静かにこう答えた。 

「戻る気持ちはなかったけれど、社員からいろいろな話を聞いていたので、私が戻るべきだと思いました。私も長く社長をやってきて、そこから一度は退いた身ですから……。でも、会社を建て直さないといけない」 その後、北岡さん、市原副社長、高林取締役の4人で、肌寒い12月に上野に近い小料理屋であんこう鍋をつついた。

今でこそ全国的に定着している「ニッタク」ブランドだが、その席で北岡さんは、なぜニッタクが東日本で特に愛され、各地方の協会などとこれほど深く結びついているのか、その原点を教えてくれた。 

かつてニッタクが東京・上野の池之端に本社を構えていた頃。東北からの終着駅だった上野駅に降り立った卓球人たちは、大きな荷物を抱え、駅から歩いてニッタクを訪ねてきたという。決して裕福な協会ばかりではなかったため、彼らは荷物の中に地元の特産品などを詰め込んで持参し、ニッタクに届けては、代わりに大会用の使用球を持って帰っていった。 「昔は一種の物々交換だったんですよ。でもね、それがこれだけ長い年月にわたる、ニッタクと地方の協会、そして卓球人たちとの深い絆になっているんです」 

北岡さんはそう言って、嬉しそうに笑った。鍋の熱気のせいだけでなく、ボールメーカーならではの温かいエピソードに、東北出身の私の胸もじんわりと温かくなった。

当時はボールメーカーとして、「東日本はニッタクボール、西日本はTSPボール」という暗黙の棲み分けが日本の中にあった。のちに全国的なシェア争いも始まるのだが、当時は卓球業界、とりわけボールメーカーとしての境界線が緩やかに引かれていた。
それは大阪に本社を置いていたTSP(旧ヤマト卓球)側にも、同じようなストーリーがあったに違いない。関西のノリの良いストレートな物言いや深い人情が西日本を拠点にしたTSPの魅力だったとすれば、寡黙でお酒が入らないとなかなか話し出さない東北の人たちと、東京にありながらも彼らにとっての「心の停車場」のような上野に会社を構えていたニッタク。
ボールメーカーに共通しているのは、地方の協会や連盟との結びつきが極めて深いことだ。ボールがなければ、大会も練習も成り立たない。この卓球の必需品を支え、供給し続けてきたニッタクが「営業のニッタク」と称される所以は、まさにここにある。

もっと深い、昔のニッタクの歴史を聴かせてほしい――。そう北岡さんと約束をしていたのだが、その約束は果たせないまま、北岡さんは日本卓球株式会社の79回目となる創立記念日、7月15日に天国へ旅立ってしまった。

卓球メーカーという立場を超え、卓球業界全体の視座に立ち、周囲の「スポンサー反対」という声を押し切ってメディアたる卓球王国を強く応援してくれた先輩が、私には二人いる。
タマス(バタフライ)の久保彰太郎さんと、北岡功さんだ。 久保さんもかつて、役員会で「卓球王国を支援するな」という逆風の中、手紙で「私の給料を削ってもいいから卓球王国に広告を出してほしい」と役員会に直訴してくれた人だった。のちに久保さんが亡くなる1週間前、その手紙のコピーを私に見せてくれた。このお二人とは、単なるメディアとスポンサーの関係を超えたお付き合いができたと、今でも誇りに思っている。

卓球王国というメディアが、この30年間で何かを形にすることができたのだとしたら、あるいは卓球選手や関係者に何かしらの影響を与えることができたのだとしたら、それを裏で支え続けてくれた先人たちの熱い思いを、私たちは決して忘れてはならない。
卓球業界という小さな器の中かもしれないが、北岡さんという傑出したリーダーがいたからこそ、僭越ながら今のニッタクという偉大なブランドがあり、現在の卓球界の隆盛があるのではないか。大好きだった北岡さんがいなくなった今、そんなことを深く考えている。

北岡さん、もう一度会いたかった。 寒い冬に、もう一度、あのおいしいお酒を酌み交わしたかった。