呉光憲の申裕斌への手紙「申裕斌だったらできるよ。申裕斌らしくプレーすればいいよ」。彼はパリに爪痕を残し代表チームを去った
[今野の眼]荻村伊智朗がTリーグと卓球王国を作った。死してなお卓球界に影響を与えた偉人
卓球王国PLUS独占記事
Text by
今野昇Noboru Konno
「荻村さんを超えたい」と松下は現役時代から考え、荻村がなし得なかった「プロリーグ設立」を目指した
彼は少しアルコールが入ると、「あの人には負けたくない」とうなされたように私に言う。彼とは松下浩二で、あの人とは荻村伊智朗だ。
私からすれば、世界チャンピオンであり、その後、スポーツ外交官として1971年の「ピンポン外交」を裏で演出し、1987年には国際卓球連盟の会長まで上り詰めた荻村伊智朗は雲の上のような存在でもある。しかし、松下にとっては尊敬しつつも、今でも「倒したい」「自分を認めてもらいたい」という存在らしい。
将来を嘱望され、愛知県の桜丘高から明治大に入った松下浩二。合宿所は当時東京の三鷹にあった平沼園の練習場の横だった。高校時代から代表合宿に呼ばれたり、海外遠征に選ばれていた松下。合宿所から自転車で数分のところに荻村伊智朗の自宅があり、国際卓球会館という卓球場が隣接していた。
1987年世界選手権ニューデリー大会に日本代表に選ばれている松下浩二。その頃から夜中の12時、1時に合宿所の公衆電話が鳴る。電話番が松下につなぐ。「これから卓球場に来なさい」と荻村の一言。