【伝説のプレイヤーたち】高島規郎 前編「世界中のカットマンが憧れた『ミスター・カットマン』」
The Legends 第22回 高島規郎(1975年世界3位・全日本チャンピオン/卓球王国2020年7月号掲載)
Interview by
「ミスター・カットマン」と呼ばれた高島規郎。
その美しいフォームと、相手の強打を糸をひくようなカットで返す姿に、
世界中の選手が感動し、世界中のカットマンが憧れた。
しかし、華麗なプレーをコート上で披露するために
彼自身が狂気と正気の狭間でもがき苦しんだことを知る人は少ない。
数々の伝説を残したカットマンの生き様と美学とは何だったのか。
■Profile たかしま・のりお
1951年(昭和26年)7月17日生まれ、大阪府出身。近畿大附高2年の時に全日本選手権ジュニア3位、近畿大に入学後、3年で全日本選手権優勝。全日本選手権では3回の優勝。1975年世界選手権カルカッタ大会ではシングルス3位。華麗なるカットと広い守備範囲で「ミスター・カットマン」と呼ばれた。現役引退後は、近畿大教授として教鞭をとり、全日本男子監督も務めた
中学1年の終わりに卓球を始め、カットマンになったのは偶然。
高校2年で全日本ジュニアで3位入賞
1970年代から80年代、日本のカットマンでこの人の影響を受けなかった人はいない。その美しい所作と流麗なフォームでカットマンの神様と崇められ、卓球ファンからは「ミスター・カットマン」と呼ばれた。
常軌を逸した現役時代を語る中に、高島規郎のある種の狂気とナルシシズム(自己陶酔)を感じる。それがなければ、このチャンピオンの異常な行動は理解できない。
高島は1951年(昭和26年)7月17日に大阪府の東大阪市で生まれた。父・義夫、母・トミエ、兄が二人、姉が3人の6人兄弟の末っ子だった。物心がついた時から、規郎にとって16歳離れた長兄・和雄が父のような存在で、とりわけ規郎には厳しかった。長兄と次兄・敏雄は1歳違いで、自宅横に工場を建て、船に使う真鍮の部品の製造をしていた。
小学生の頃から高島が夢中だったのは野球。他の子よりも足が速く、運動会のヒーローだった。将来の夢はプロ野球選手。しかし、小学6年から中学に上がる時、野球で遊んでいる際に喧嘩になり、左のひじと手首を骨折し、中学校の部活で野球をあきらめることになった。