[アーカイブその4]馬龍、語る。「確かに世界選手権で優勝したことは階段を一段上がったことだけど、これは始まりでもある」
【People】ダブルスタンダードな大会運営の実現へ 蓑島尚信
[日本卓球協会常任理事]
みのしま・たかのぶ 1959年3月3日生まれ、岐阜県郡上市出身。中学で卓球部に入ったが、高校以降は卓球とは無縁の学生時代をおくる。大学卒業後に教員になってすぐに卓球部の顧問になり、関商工高時代はインターハイの常連校として名を馳(は)せる。高体連、岐阜県卓球協会、日本卓球協会と理事を歴任。日本卓球協会では常務理事として、事業・普及部などを取り仕切る。
Text by
中川 学Manabu Nakagawa
非難もありますが、誰かがメスを入れなければいけません。
それは私の仕事だと思っています。
関商工高(岐阜)の卓球部の顧問として、公立校ながらインターハイ常連校として活躍。その後、高体連の事務局長、岐阜県卓球協会の常任理事、日本卓球協会東海ブロック代表など数々の役職を歴任。現在は岐阜県卓球協会の理事長、日本卓球協会の常任理事を務めて5年目になる蓑島尚信。事務方のエキスパートとして卓球界を広く支えている蓑島に、自身が描く未来像を聞いた。 今年7月に岐阜市で開催された全日本クラブ選手権。多忙な合間を縫って蓑島に卓球との出合いを尋ねると、照れくさそうにこう話した。「中学で卓球部に入りましたが、クラブ活動で吹奏楽もしていました。高校でも卓球部に入ったけれど、先輩のしごきが嫌で3カ月で退部。そんな私が、教員になって卓球部の顧問になると、毎晩12時まで練習するようになるなんて。皮肉なもんですね」と笑う。 高校、大学と卓球には無縁の生活を送った蓑島が、卓球と再会したのは大学卒業後に教員として赴任した県立中津川工高でのこと。「すぐに卓球部の顧問を命じられて、たまたま強い子が4人いて、夏の県大会で3位に入りました」(蓑島) 中津川工高に5年間勤務した後、赴任したのが関市立関商工高。卓球部は岐阜県9連覇中の強豪校だったが、蓑島は事前に水泳部か弓道部のどちらかの顧問を提示されたため、「カナヅチなので」と伝えて弓道部の顧問を希望した。しかし、赴任すると卓球部の顧問に決まっていた。 当時の関商工高は、公立校が私立校の卓球部に勝つために「日本一の練習量」を掲げていた。「顧問になって初めて練習に顔を出した日は、帰宅が夜の12時過ぎに。女房から『どこで遊んできたの?』と怒られてね。練習していたと言っても信じてくれませんでした(笑)」(蓑島) その後も平日はその日のうちに帰宅する日はなかった。「この生活が15年間ほど続きました。当時の部員は県大会に出た子が数人で、高校から卓球を始めた子も多かった。中学でバレーボール部だった子が、2年後のインターハイ予選の決勝で決勝点をあげてくれるなど、私立高に勝つためには2年間で4000時間のボールを打たせないといけないと考えて、超スパルタな指導をしていました」(蓑島) 関商工高から県立岐阜工高に赴任してからは、役員として岐阜県の卓球に携わるようになる。「岐阜県の高体連の専門委員長をやりながら、東海ブロックの代表理事、全国高体連の理事、最後は高体連の事務局長を5年務めました」(蓑島) 事務方としての能力を買われた蓑島は、日本卓球協会の星野一朗(当時専務理事)から常務理事として日卓協での仕事を頼まれた。蓑島は、「星野さんのような人格者からお願いされたら、断ることはできません」と常務理事を引き受けて、大会運営に携わる事業・普及部とルール・審判部を担当することになった。 「事業・普及部長として私が行っている改革は、サステナブルな大会運営。今後の大会運営は『選手ファースト』と『主管地ファースト』のダブルスタンダードで行きます、とコロナ明け最初の対面会議で宣言しました。これは2〜3000人規模の参加者で、卓球台が60台も必要なマンモス大会の運営が難しくなってきているためです。スタッフは食事も取れずにぎりぎりで運営しています。また、高校生の補助員を20時過ぎまで会場で手伝わせることも改善しなければいけない。 7月のクラブ選手権からダウンサイズしましたが、そうしていかなければ今後の大会運営が続けられなくなってしまう。非難もありますが、誰かがメスを入れなければいけません。それは私の仕事だと思っています」(蓑島) 卓球を愛するが故の大会運営の改革。事務方のエキスパートであり、多くの経験と強い胆力を備えた蓑島にしかできない大仕事だ。(文中敬称略)