呉光憲の申裕斌への手紙「申裕斌だったらできるよ。申裕斌らしくプレーすればいいよ」。彼はパリに爪痕を残し代表チームを去った
卓球王国2025年1月号掲載 呉光憲[前韓国女子代表監督]
今から30年ほど前、24歳の若者が韓国から日本にやってきた。呉光憲は淑徳大を常勝軍団に育て上げ、日本のNT(ナショナルチーム)のコーチとして2016年リオ五輪の地を踏み、JNT(ジュニアナショナルチーム)監督として世界ジュニア選手権で日本女子を優勝に導いた。
そして、2022年には韓国女子の監督に就任。パリ五輪で韓国は2個のメダルを獲得し、呉光憲は監督としてヒーローとなった。しかし、語られていない感動の物語がある。
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「時にはマスコミから批判があるかもしれないけど、それもひとつの力だと思ってください。それに負けたらダメです。自信を持って頑張りなさい」と手紙を書きました
呉光憲 オ・グァンホン
1970年9月9日、韓国・富川(プチョン)生まれ。22歳からプロ卓球コーチとしてソウル商業高校を指導、24歳の時に来日し、淑徳短大(のちに淑徳大)の監督を務めた。その後、女子ナショナルチームのコーチ、その後、女子ジュニアナショナルチームの監督に就任。2017年に韓国に戻り、実業団チーム監督を経て、2022年に韓国女子代表チーム監督に就任。2024年パリ五輪では混合ダブルスと女子団体で2個のメダルを獲得した。現在(2024年)は実業団チーム「ポラム」のGMを務める
淑徳大をインカレ11回の優勝チームに育て上げた呉光憲。韓国に戻り、2022年に代表監督に就任した
パリ五輪のスポットライトの中で、呉光憲は檄(げき)を飛ばし、チームを、そして申裕斌を鼓舞していた。韓国の代表監督、最後の仕事として。
彼のコーチとしての経歴を見れば、韓国よりも日本でのキャリアのほうが長いことがわかる。大学まで卓球に打ち込んでいたが、大学の卓球部が休部となり、21歳の時から金暻娥(キム・キョンア/五輪メダリスト)のトレーナーを務め、22歳からはソウル商業高でプロコーチとして指導。
その時に千栄石会長(元韓国卓球協会会長・1973年世界女子団体優勝監督)から声をかけられ、日本の淑徳短大(のちに淑徳大)にコーチとして行くことになった。1995年の4月、呉が24歳の時だった。「あいうえお」もわからない、日本語が全く話せない状態で呉は海を渡った。そして、激しい練習と熱血指導で同卓球部を常勝軍団に育て上げ、インカレ(全日本大学対抗)で11回の優勝記録を刻んだ。