
真説 卓球おもしろ物語20【冬の時代を迎えた日本とスウェーデンの台頭】
〈その20〉卓球王国2022年2月号掲載
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卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。
今回は、1980年代初頭の卓球情勢。79年に世界選手権男子タイトルを失った中国だったが81年大会では全種目を制覇。日本も83年の東京大会でのタイトル奪還を目指し、さまざまな試みを行う。
参考文献:『卓球知識の泉』p.190(中国の特訓)、『卓球マガジン』1985年8月号p.22(李富栄への手紙)
1979年世界選手権ピョンヤン大会、タイトルを失った中国男子の苦悩
1979年世界選手権ピョンヤン大会(朝鮮民主主義人民共和国)で中国は、男子団体はハンガリーに、男子シングルスは小野誠治に、そして男子ダブルスはドラグティン・シュルベク/アントン・ステパンチッチ(ユーゴスラビア)に敗れてタイトルを失い、国内で猛批判に晒(さら)された。
李富栄(リ・フエイ)監督の家には非難の手紙が何箱分も殺到し、中にはすえた臭(にお)いのボロボロに腐った靴の中敷きが同封されており「お前のような無能監督にはこれが一番ふさわしい表彰状だ」と書いてあった。当時の中国にとってそれほど男子のタイトルを失ったのは耐え難いことだったのだ。
何としてもタイトルを奪い返したい中国首脳陣は、“生まれ変わってカップを奪い返す”というスローガンのもと、徹底的な強化を図った。
その方針は、思い切った新人の起用、ハンガリー勢3人のコピー選手の育成(ヨニエルは陳勇(チン・ユウ)、クランパは成応華(セイ・オウカ)、ゲルゲリーは黄統生(コウ・トウセイ))、サービスの強化とループ対策といったものだったが、最も重視されたのは精神面の強化だった。冬は氷点下15度での耐寒合宿訓練、夏はゴビ砂漠で45度の炎熱の中で耐暑合宿訓練を行った。
