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真説 卓球おもしろ物語29【卓球メジャー化の明暗、テレビ東京とスーパーサーキット】

〈その29〉卓球王国2022年11月号掲載

Text by

伊藤条太Jota Ito

卓球史研究家・卓球コラムニストの伊藤条太氏が、独自の視点で卓球史を紹介するこのコーナー。今回は、日本で卓球がメジャー化へ向かう2000年代初めの頃の物語。2004年アテネ五輪では福原愛の活躍が注目され、以降、世界選手権の放送が民放テレビ局で開始。時期を前後して2000年には高額賞金付きサーキットが日本で誕生した。

2004年アテネ五輪、奇跡の優勝を遂げた柳承敏

 2004年、21世紀最初の夏季オリンピックが、近代オリンピック発祥の地、アテネ(ギリシャ)で行われた。前年の世界選手権(個人戦)パリ大会では、中国が4種目を制したが、もっとも重要視される男子シングルスの優勝を逃していた。卓球王国・中国にとって、絶対に許せない成績だった。
 その中国が威信をかけてアテネに送り込んだのは、王励勤(ワン・リチン)、馬琳(マ・リン)、そして王晧(ワン・ハオ)の3人だったが、またしても男子シングルスの金メダルを逃した。決勝は、準決勝で王励勤との同士討ちを制した王晧と、同じく馬琳を破って勝ち上がってきた“韓国の神童”、柳承敏(ユ・スンミン)とで争われた。
 過去の対戦成績は王晧の6勝1敗で、圧倒的に有利と思われた。しかし柳承敏は、目を疑うようなフットワークで台の何倍もの距離を動き回り、ほとんどオールフォアで強烈なドライブをぶっ放した。片面にしかラバーを貼っていない柳承敏は、バック対バックの打ち合いでは王晧の裏面打法に敵(かな)わない。身体がどうなろうとも、捨て身で動き回ってフォアハンドドライブを打って打って打ちまくるしかなかった。選択の余地がないのだから迷う必要はなかったし、負けてもともとの相手であればなおさらである。
 一方の王晧には凄(すさ)まじいプレッシャーがかかっていた。勝って当たり前の相手だったし、両ハンドを使う王晧にとって、その戦術は柳承敏ほど単純なものではなかった。これらの要素が王晧のプレーをわずかに狂わせ、最後まで波に乗れずに柳承敏の勢いに屈した。
 こうして柳承敏は、1988年ソウル五輪での劉南奎(ユ・ナムキュ)以来、韓国男子として2人目の五輪金メダリストとなった。

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