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[アーカイブ]柳承敏「北京五輪は中国のホームだから、もっときついはずです。しかし、ハードなターゲットだからこそ挑戦する意味も大きくなります」

卓球王国2007年1月号掲載  柳承敏(韓国)・2004年五輪金メダリスト

2025年1月14日に韓国オリンピック委員会の会長選挙で現職を破り、当選した柳承敏氏。ついに五輪金メダリストは韓国のスポーツ組織のトップに立つ。彼の2007年の現役時代のインタビューをアーカイブとして紹介しよう。原稿は当時のインタビューの原文である。(文中敬称略)

男臭い卓球である。ペンホルダードライブ型の柳承敏の卓球はシェーク全盛時代では一見武骨に見える。しかし、その技術は洗練され、緻密であり、そしてスペクタクル。アテネ五輪金メダリストは輝く栄光のあとの苦悩の道程を経て、進化した「柳承敏卓球」で再び世界最高峰の山に登ろうとしている。栄光の十字架はすでに山の麓に置き去りにした。ただそのプライドを賭けて戦いに挑むだけなのだ。

interview by

今野昇Noboru Konno

たくさんの人にスランプではないかと言われたけど、ぼく自身はスランプというよりは、オリンピックという大きな大会が終わってから目標意識が落ちてしまっただけだと思っている

 22歳で世界の頂点に立った柳承敏。その舞台は2004年のアテネ五輪だった。当時世界ランキング3位だった柳承敏は、蒋澎龍(チャン・ポンロン)、梁柱恩(レン・チューヤン)、準決勝でワルドナーを退け、決勝では王皓(ワン・ハオ)に完勝して、男子では5人目の五輪金メダリストに輝いた。
 つかむ栄光と名誉が大きい分、その後の反動が大きいのが五輪金メダリストかもしれない。劉南奎(ユー・ナムキュ)、ワルドナー、劉国梁(リュウ・グオリャン)、孔令輝(コン・リンホイ)という男子歴代の金メダリストも五輪の直後は成績が落ち込んでいる。劉南奎は88年、20歳で金メダルを獲るとその後一度もビッグタイトルを獲れないまま現役を終えた。92年のバルセロナ五輪金メダリストのワルドナーは、再び世界タイトルを獲るのは97年まで待つことになる。96年アトランタ五輪の覇者、劉国梁は翌97年の世界選手権ではシングルスの2戦目で姿を消した。2000年シドニー五輪優勝者の孔令輝は翌年の世界選手権で決勝に進んだものの、再びビッグタイトルを獲ることなく、つい先日、引退を表明した。
 スポーツマンなら誰しも夢に見る五輪金メダルには禁断の匂いがする。一度それを口にすると、アスリートは燃え尽き、しばらく立ち直るまでに時間がかかるか、選手としての寿命を全(まっと)うする。伸びきったゴムが元の弾性を取り戻すことができないように、全身全霊を打ち込んだ体と心が極度に消耗してしまうのか……。
 柳承敏はアテネ五輪後のプロツアーの成績は振るわず、翌05年の上海での世界選手権でも2回戦で敗れた。彼がようやく復活の兆(きざ)しを見せたのが、05年暮れのあいおい・トヨタカップでの優勝であり、06年春のブレーメン、世界団体選手権での活躍だろう。ブレーメンでは準決勝まで全勝で、チームに大きく貢献。決勝では宿敵・王励勤(ワン・リチン)に敗れたものの十分に勝機のある戦いを見せた。
 ブレーメンのあとの日本でのスーパーサーキットでは3大会中2大会で優勝。王励勤にも勝っている。招待大会とは言え、あいおい・トヨタカップとスーパーサーキットの優勝は自信になったはずだ。「優勝」と「自信」がアスリートとしての栄養となり、柳承敏のプライドを再生させた。

●——2004年アテネ五輪のあと、勝てなかった。スランプに陥ったよね。
柳承敏 卓球では勝つ時もあるけど負ける時だってあります。ぼくが最高の位置に立ったあとたくさんの人にスランプではないかと言われたけど、ぼく自身はスランプというよりは、オリンピックという大きな大会が終わってから目標意識が落ちてしまっただけだと思います。オリンピックのすぐあとの試合では挑戦する精神を失って、ただ守ろうとするうちにプレッシャーも感じて自分のプレーができなかった。

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