【伝説のプレーヤーたち】川井一男 前編「それでカチンと来てね、専修大に行くことに決めちゃったんです」
The Legends 第4回 川井一男(1954年世界選手権団体優勝)
日本が世界選手権の男子団体で初優勝した、
54年世界選手権ウェンブレー大会。
田舛吉二、荻村伊智朗、そして富田芳雄と
語り部たちが世を去っていく中で、その男は今もラケットを握る。
「卓球ニッポン」の栄光の陰に隠れた悲運の実力者、川井一男の物語だ。
Text by
◉かわい・かずお
1933年2月7日生まれ、静岡県出身。中学2年生で卓球と出合い、浜松商業高3年時に全日本ジュニア3位。専修大に進み、大学4年時に54年世界選手権ウェンブレー大会代表、56年世界選手権東京大会にも代表として出場し、シングルスベスト8に入る。富田芳雄とのペアで全日学ダブルス2連覇、全日本混合ダブルスでも2回優勝している
体の小さい選手は、台から下がれば不利になる。
極力前陣でプレーすることを意識した。
日本男子チームが世界選手権・男子団体で初優勝を飾った、1954(昭和29)年の第21回世界選手権ウェンブレー大会。
4名の代表選手たちの中に、明るく人なつっこい笑顔を見せるひとりの選手がいた。当時、専修大学の4年生だった川井一男だ。
前陣で放つフォアハンドの連続攻撃で、「速射砲(そくしゃほう)」の異名を取った川井。「かつて戦後最も美しく正確なフォアハンドと喧伝(けんでん)された」。卓球ジャーナリストの草分けとして活躍した井坂信太郎は、のちに川井のフォアハンドをこう評している。
ウェンブレー大会の2年後、世界選手権東京大会では男子シングルスでベスト8に入り、卓球ニッポンの黄金時代の真っ直中を選手として生きた川井。
日本でも五指(ごし)に入るほどの実力を備えながら、その競技生活には時に不運の影が差した。そして、その不運がコートの外からもたらされたことが、川井一男の最大の不運だった。