
【People】早田恵美子[情熱の限り走り続けるパワフルレディー]
卓球王国2025年8月号掲載 早田恵美子[長崎・そうだ卓球場]

元日産の名選手が歩む山あり谷ありの卓球人生
日産の平野恵美子と聞けば、ピンと来る方もいるだろう。男勝りのペンドラ・オールフォア卓球を武器に、5年連続で全日本ランク入りを果たした名手。彼女の卓球への情熱の火は、地元長崎で今なお燃え続けている。
中学1年で卓球を始めた早田(旧姓・平野)恵美子だが、実はスタートで少し出遅れている。幼少期の不慮の事故によって右手にひどい火傷を負っていたのだが、それを完治させるため、自らの足の裏から皮膚の移植手術をすることになり、中学に入ってまもなく3カ月ほど大学病院に入院していたのだ。そのため、卓球部の活動も最初は球拾いだけだった。
「その球拾いもね、卓球が好きっていうのもあったけど、もう1個理由があったとよ。うちが農家やけん、家に帰ったら仕事のいろんなお手伝いをせんばならん。それが嫌でね。部活って言えば、せんでいいでしょ(笑)」
ただ、その中で、早田のやる気に火をつけた人物がいた。同級生の「なおっぺ」こと岩永直子だ。
「卓球は、県で一番やっけん強かでしょ。勉強もできたと。頭めっちゃよかった。で、美人さ。足も速かっさ。もう全部優れとっと。『いやぁこの人すごいなぁ』って思ってたんだけど、『いっちょ勝ちたかね』と思って。で、卓球しかなかなーと(笑)」
その負けん気で努力した甲斐もあり、実力をつけた早田は中学3年の時、県大会でシングルス2位となる(優勝は件の岩永)。当時の監督・今村一則の熱心な指導もあり、層の厚かった北諫早中チームは団体戦でも優勝を勝ち取って九州大会に進出。その九州大会ではシングルスで上位に食い込み、全中(全国中学校大会)の出場権を獲得した。そうした活躍が柳川高監督の熊丸宣俊の目に留まり、早田はスカウトを受けることなる。

中学の恩師・今村からは、厳しい言葉をかけられた。「お前、知っとっとか?柳川って、どがんところか知っとっとか?日本一ぞ。日本一の学校から、特待が来とっとぞ。誰も彼もは務めきらん。どがんすっか。難しかぞ」と。
だが、早田自身は「日本一の学校ってどんな練習するんだろ」とか「どういう世界なんだろ」といった好奇心と意欲を抑えられず、両親に進学を直訴。家計も苦しかった中、最後は父が「卓球は強うならんちゃよかばってん、辞むんなよ、3年間」という言葉で送り出してくれた。
ただ、柳川高に入ってすぐ、早田はいきなりの洗礼を受ける。それまでの早田はペンホルダーで一枚ラバーを使うやや変則タイプの攻撃型だった。家計にかかる負担を少しでも減らそうと、価格の安い一枚ラバーを選択したのもあったが、それ以上に彼女は一枚ラバーの使い手としてのプライドと野望を持っていた。
「日本一の柳川に入って、みんなが嫌がるこの一枚ラバーを使って、日本を制覇しよう!なんていう、大それたことを考えてたんだけど、柳川に行ったその日に熊丸先生が『はい、これ』って言って裏ソフトを出してきた。みんなと同じになりたくない、裏だけにはしたくないと思って行ったとに、先生からは『裏をやれ』と。もう、やりたかったことがガラガラ〜って崩れましたね」
当然ながら、それまで一枚ラバーを使い込んでいた早田は、裏ソフトに替えた途端、ボールがまるで入らなくなった。最初の一週間は部室の鏡の前で4時間半、素振りだけの日々。グリップも矯正され、手首付近に割り箸を入れられ、包帯でぐるぐる巻きにさせられて、ひたすら素振りをしたのが高校生活のスタートだった。
それに輪をかけて、柳川高の卓球部は想像を絶する厳しさだった。父の「辞むんなよ」というあの言葉がなければ絶対辞めていた、と早田は当時を振り返る。
「6時から朝練だから毎日5時起き。夜は先輩たちのお風呂の間に洗濯をして干して、それから卓球ノート……それで眠くて、授業中に寝ていると熊丸先生の耳に入って怒られる。ネットが5mm低かったからと言って雪の降る中、外で4時間正座させられたり、『(返事の)声が小さい』と言われてパーンと叩かれたり。感覚的には卓球場の中が戦場ですよ。ボーッとしてたら(銃弾が)パーンって当たって死ぬ、みたいな」
その地獄のような環境の中、さらにハードな特別練習も自らに課した早田。高校1年の時には、ひとつ下の学年に強いカットマンが入ってくるという情報をキャッチしてから、同級生のカットマン吉松ひとみ(後に早田と日産に同期入社)をつかまえて、規定練習後に寮の門限ギリギリの時間まで苦手だったカット打ちを猛特訓した。主力選手となった高校3年の時には、夏場の猛暑の中、意識朦朧となりながら1時間ぶっ続けでフットワーク練習を行った。
「『こんな環境で、こんな長い時間、こんな集中して、誰〜もしよらんよ、日本全国』って言うぐらい、自負はありましたね。だから、試合をしてても負ける気がしない。『負けるわけがない』っていう感覚。そこまで追い込んでやってましたね」
その異常とも思える努力が実を結び、高3の夏には見事インターハイ団体優勝を成し遂げた。


1984年度のインターハイ、柳川高で団体優勝を果たした時の早田(左)。決勝トップで京浜女子高の室重明世を破った
※写真は「TSPトピックス」1984年10月号より
高校卒業後は小林秀行監督(当時)の誘いもあり、実業団の強豪・日産自動車に入社。最初の数年間は目標とした全日本選手権でのランク入りを果たせず、4年目の全日本を迎える前、早田は覚悟を決めた。「今年、全日本ランクに入れなかったら長崎に帰る」と。
「もうね、馬鹿みたいに走りました。朝は出社前5時頃に起きて走り、帰ってきてからも走り、とにかく3カ月ひたすら走った。そして、初ランク6位ですよ」

1988年度の全日本選手権で初ランクに入った時の早田。前年3位の下長智子を破るなど活躍
※写真は「TSPトピックス」1989年2月号より
そこから早田は5年連続全日本ランク入りを果たす。1990年には翌年の千葉大会の予行試合「プレ世界選手権」の日本代表にもなった。その後、91年度限りで日産を退社し長崎へ帰郷。「諫早卓球センター」でコーチの仕事に就いた。
地元に戻ってから最初の年、早田は全日本選手権に出場し、見事にベスト8まで勝ち上がる(ランク6位)。そのあとは結婚と3人の子の出産を経て、ご主人の農業を手伝わなければいけないこともあり、しばらく本格的な競技からは距離を置いていた。

実家のある長崎県に戻ったあと、1992年度の全日本選手権で5年連続のランクインを果たした早田。当時の所属は諫早卓球センター
※写真は「TSPトピックス」1993年3月号より
しかし、2006年には全日本選手権マスターズの部が隣県・佐賀で開催されることになり、ちょうどそれが自身の40歳の節目にあたっていた早田は、かつての忘れ物「日本一」を取りに行くことを心に決めた。
「日産にいた時、監督の川村公一さんに『お前、全日本チャンピオン狙えるから狙え』って言われて、ノートに『今年の目標:全日本チャンピオン』って書いたことがあった。でもその時は、心の中で『いやぁ私はタマじゃないな。日本チャンピオンになるタマじゃないよ』って思ってた。だから、5位までにしかなれなかった……っていう反省があったと。
『ああ、あん時、本当にガチで私が全日本チャンピオン取ろうと思ってやっとったら、もしかしたら取れとったかもね』っていうのが心のどっかにあってね」
それを思い出した早田の気持ちはメラメラと燃えた。当時の職場だった諫早卓球センターの周りを雨の時もカンカン照りの時も、約1年半にわたって毎日走った。大会前には出場選手の情報を各方面から入手して分析・対策も行い、「まるで結婚式を待つような気分」でマスターズ本番を迎えた。
そのマスターズではフルゲームになる苦戦もありながら、「私はここで負けるために1年半も走ってきたとじゃなか!」という気力を振り絞って決勝進出。対戦相手は奇しくも日産の先輩・大津絵美子(旧姓・神田/82年全日本チャンピオン、83年世界選手権日本代表)だった。
そして、鍛えに鍛えたフットワークを武器に大津を圧倒した早田は念願の「日本一」を獲得。「私、これがね、夢だったんですよ、ホントに」と、早田がしみじみ語りかけたところ、マスターズの「主」とも言える大津から「あら、来年も取ればいいじゃない」と返されたのは、ひとつの笑い話になっている。

その後、一時は卓球を離れた早田だったが、2014年の長崎国体時に日産の元同僚・羽佳純子と再会したのを契機に、卓球愛が復活。諫早市内の各地でレディースの指導をしながら「パッション」というジュニアクラブも立ち上げ、指導者として本格的な活動を再開した。
ところが、2022年秋にはご主人の智施さんが脳出血で倒れ、介助が必要な状態に。外へ出かけるのが難しくなった早田は、自宅の庭にあった農機具置き場を改装し、2023年11月に「そうだ卓球場」をオープンした。

「日産を辞めてこっちに帰ってくる飛行機の中で外を見ながら、『ああ、私これから先ずっと長崎で卓球を教えるんだけど、今までの自分の経験を通して、長崎の方に少しでも卓球の楽しさや上達する喜びを味わってもらいたいな』って、本当に心の底から思った。その思いは、今でも変わらないです」
2025年度からは、諫早市卓球協会の理事長にも就任した早田。彼女の卓球の旅は、これからも続いていく。
(文中敬称略)
■ PROFILE そうだ・えみこ
1967年1月30日生まれ、長崎県諫早市出身。旧姓・平野。北諫早中1年で卓球を始め、柳川高3年時にインターハイ団体優勝。日産自動車へ進み、1988年から1992年まで5年連続全日本選手権ランク入り。2006年全日本マスターズフォーティ優勝。2023年に「そうだ卓球場」をオープン。2025年4月より諫早市卓球協会理事長