【セカンドキャリア】福岡春菜 やっと「卓球を使って仕事をしてもいいかな」という気持ちになって、私の中で一歩前に踏み出せたと感じています

【People】荒谷雄気 [サンケイ株式会社 代表取締役] 学生時代に与えてもらったチャンスを今に活かす
卓球王国2025年8月号掲載(文中敬称略)
広島県広島市に本社を構えるサンケイ株式会社。総合警備会社として40年の歴史を誇る同社に卓球部を作り、「仕事と卓球の両立を全力で応援したい」と熱く語るのは、若くして代表取締役を務める荒谷雄気だ。

■Profil あらや・ゆうき 1988年11月22日生まれ、広島県広島市出身。小学校のクラブ活動で卓球に出会い、明徳義塾中・高、埼玉工業大と名門卓球部でラケットを振った。戦型は「松下浩二さんと渋谷浩さんに憧れて」とカットマンを選ぶ。その後は父親が経営するサンケイ株式会社に入社。同社に卓球部を創部し、日本リーグに参戦中。
中学3年で親元を離れ、名門の明徳義塾中の門を叩く
「明徳での経験は大人になって必ず役に立つと思い、踏ん張ることができた」
荒谷が卓球を始めたのは、小学5年の時に入った学校のクラブ活動だった。週一回の卓球クラブが楽しく、地元の公立中学でも迷わず卓球部に入部した。 「強い卓球部ではありませんでしたが、部員は30名程で活気がありました。毎日練習していましたが、強くなりたいというより、純粋に卓球が好きで夢中になっていました」 転機が訪れたのは中学3年の時、高知県の明徳義塾中に転校し、全国トップクラスの卓球部に入った。 「ちょうどその時期に明徳義塾中・高の卓球部が部員募集に力を入れていて、自分自身は実績もないし、全然強くありませんでしたが、入部を認めてもらいました。『強くなりたい』という思いが一番にありましたが、地元や実家を離れた環境を早く経験してみたいという気持ちもありました」 荒谷は中学生の頃から、「このままだと“甘ちゃん”で終わってしまう」という思いがあったと当時を振り返る。明徳義塾中・高では寮生活が基本で、事前の見学では先輩から「ここは成長できるぞ」と耳打ちされたことで、さらに明徳に入りたいとの気持ちが強くなった。 「入学してすぐに、お決まりのホームシックになりましたが、ひとつ屋根の下で食事をともにし、卓球に打ち込みながら同じ時間を過ごす仲間ができたことで、徐々に環境に慣れていきました。卓球ができることは当たり前ではない、ということを明徳で教わりました。親が働いて送り出してくれたことで、卓球に打ち込める環境に自分がいるということに感謝しました」 荒谷は高校卒業までの4年間を明徳で過ごした。 「正直に言えば、何度も心が折れそうになりましたが、卓球部監督の佐藤建剛・利香先生から卓球のみならず、生活面でも親身になっていただいたことで、乗り越えることができました。明徳での経験は大人になって必ず役に立つと思い、踏ん張ることができました」と明徳での生活を振り返る。

そんな荒谷にとって忘れることができないのは、明徳義塾中に入学した夏の全中だ。 「団体戦で準々決勝に勝ち進み、青森山田中との対戦前のミーティングで『出たい選手はいるか』と監督に聞かれ手を挙げました。今思えば怖いもの知らずで、みんなの足をひっぱってしまいましたが、オーダー表に自分の名前があった時はうれしかったですね。この時のスコアは鮮明に覚えていて、前半に出て高木和卓選手に3点、5点、5点でコテンパンにされました」と笑う。 「実力が足りない自分にもチャンスを貰えたことがうれしかった。成長する機会を与えてもらったと、社会人になってからわかりました」と荒谷は言う。 高校卒業後の埼玉工業大でもチャンスを貰った。「大学2年の時、沼田政之監督に『練習に身が入っていない』と檄を受け、改心して練習に励み、ダブルスでは平屋広大と組むなど、貴重な経験をさせてもらいました」と言う。 「社会人になってからは、大学の先輩である尾前龍太郎さんにアドバイスをいただき、実業団のサンケイ卓球部を立ち上げることができました。学生時代に恩師より無償の人間愛を受け、挫折せず前進することができたと感謝しています。経営者になった今、その経験が人材育成や卓球部の活動方針の根っこになっています。 これからは卓球を続けていきたい学生の受け皿として、そして卓球界と地域へ、微力ながら恩返しができたらと思います」(文中敬称略)