
前全日本女子監督[渡辺武弘という生き方]。「このままサラリーマンでいいと思っていましたから」
卓球王国PLUS独占インタビュー <前編>
2021年の東京五輪後の大会で、テレビに映し出される日本女子の代表チーム。
代表選手のベンチに居る白髪のコーチ。監督としての威厳はなく、目をむいて熱いアドバイスを送るでもなく、穏やかな表情を見せていたのが渡辺武弘だった。
SNSでは「選手同士でアドバイスしているけど、あの白髪のベンチの人は誰なんだ?」と書かれた。50代以上の人は、彼が元五輪代表で、全日本チャンピオンだった渡辺だということに気づくだろうが、その存在感の薄さに「?」を投げかけた人もいただろう。
しかし、強化スタッフの中では、この男の人間性に敬服した人は多かった。特に、全日本の女子選手はそれぞれが強力な母体やそれぞれのチームを持つ「個性派集団」で、そのチームを円滑に動かせる人は少ない。渡辺本人も「ぼくは監督ではなく、総務ですから。でも責任は全部ぼくが受けます」とはばかることなく、言っていた。

わたなべ・たけひろ
1961年12月16日生まれ、福岡県大和町出身。左ペンホルダードライブ型として全国中学校大会シングルス優勝、熊谷商高でインターハイ三冠、明治大学に進学後、協和発酵(現協和キリン)に入社。世界選手権代表4回、1988・92年五輪日本代表。1991年全日本チャンピオン。2011年に中部大学准教授となり、現在は教授。全日本女子チームのコーチを経て、2021年から代表監督を務め、2025年3月に退任
Interview by
全日本チャンピオンになったのが30歳の時で、「遅咲きのチャンピオン」と言われました
福岡で生まれ、幼い頃に父を亡くし、4人兄姉の末っ子として、母が女手一つで育てた渡辺武弘。遊びで卓球のラケットを握ったのは小学3年のとき。2歳上の兄が卓球をやっていたことがきっかけだった。それでも中学入学時にはブラスバンド部か卓球部で迷い、兄の友だちが卓球部のキャプテンで甘くしてもらえるだろうと思って、卓球部に入っている。
中学3年の九州大会では3回戦で敗退するも、全国中学校大会で優勝し、熊谷商高の吉田安夫先生(故人)の目に留まった。それがなかったら卓球は続けていなかった。渡辺武弘の卓球人生は偶然の積み重ねなのだ。
厳しい名門校で鍛えられ、高校3年でインターハイ三冠王。明治大学に進学後、世界選手権出場、オリンピック代表となり、協和発酵(現協和キリン)に入社後、優勝できなかった全日本選手権では30歳にして優勝して、燃え尽きた。
卓球から離れ、協和発酵で営業職として勤務し、北海道、富山、名古屋と居を移しながら、20年以上、卓球の第一線からは離れていたものの、中部大学から声がかかり、准教授に着任。その後、日本卓球協会の強化本部からコーチを要請され、2024年パリ五輪では女子代表監督としてチームを率いた。監督退任後は大学に戻り、教授として指導にあたっている。
◇
●ー渡辺さんのキャリアをさかのぼると、熊谷商高から明治大、そして協和発酵(現協和キリン)に入り、選手として活躍した後に協和の監督を務め、その後、卓球から離れましたね。
渡辺 卓球を離れたのは34、35歳くらいですね。
●ー今の時代だったら早いですね。当時は仕事に専念するために監督を辞めたわけですね?
渡辺 そうですね。全日本チャンピオンになったのが30歳の時で、「遅咲きのチャンピオン」と言われました。ぼくより上は小野誠治さんくらいしかいなかったですから。当時は30歳を過ぎて上でやっている選手は少なかったです。優勝した後、「これ以上は無理だ、もういつやめてもいい」と思っていたのですが、団体戦のメンバーが足りなくて、最後の2年間は監督兼選手として団体戦だけに出場していました。
会社の同期は仕事をバリバリやっていたので、焦りもありました。