
[ようこそ卓球地獄へ/たまには真面目な卓球論]卓球の進化
卓球王国ブックス「ようこそ卓球地獄へ」<第5章>より <その46>

中国は世界中のパワードライブをその前陣ブロックでことごとく跳ね返して世界の頂点に君臨していた
2009年、全日本で齋藤清が通算100勝を記録した。100回勝つことがそんなに大変だろうかと思う人もいるかもしれないが、これは大変なことなのだ。全日本はトーナメントなので、スーパーシードから出場すると、優勝してもたったの6勝だ。10年連続優勝しても60勝にしかならないのだ。そう考えれば、100勝がいかにとんでもない記録かわかるだろう。
その100勝目の試合をネットで見てあらためて感じたのは、卓球の進化だ。あまり言う人はいないが、1980年代以降、世界の卓球技術でもっとも進化したのはブロックである。それは革命だった。
ヨーロッパがパワードライブ全盛だった1980年代初頭、中国は世界中のパワードライブをその前陣ブロックでことごとく跳ね返して世界の頂点に君臨していた。中国人は特殊な反射神経をもっているのではないかと半ばあきれる人さえいたが、その秘密にいち早く気がついたのがスウェーデンだった。1982年、ナショナルチームのトーマス・バーナーとグレン・オーストは中国を訪れ、そこで見た練習にショックを受ける。中国選手たちは、コート全面にランダムに打ち込まれる全力ドライブをブロックする練習をしていたのだ。彼らがそれをできるのは「それを練習しているから」という単純な事実がそこにあった。
この練習がスウェーデンに持ち込まれたときのことをアペルグレンは『スウェーデン卓球最強の秘密』(ヤマト卓球)の中でこう語っている。「最初の1カ月は1本しか取れない。1本取って、次は『オッ、ワッ』とか言って手も出ない。でも5カ月後には4、5本取れるようになり、2年後には20本取れるようになった」。問題は、最初の全然取れない段階をいかに確信をもって耐えるかだったのだ。
しかしこの技術が日本に浸透するのはかなり遅かった。思い出すのは1990年の全日本選手権決勝の齋藤清と渡辺武弘の試合だ。二人ともペンドライブ型で、バックにドライブが来るたびに飛び上がって背中のゼッケンをひらつかせながらブロックをしていた。打球点を体の下方にずらさないとラケットの角度が出ないのだ。おたがいにブロックが苦手なので、打球点を落としてもフォアで回ってドライブを打った方が有利になる。かくしてますますグリップはフォア偏重になってブロックが難しくなるという悪循環であった。
中国の凄いところは、ペン裏面打法を思いついたことではなく、それをナショナルチームにやらせたことなのだ
これは齋藤や渡辺をおとしめているのではない。指導者も含めて、日本全体がそういう技術の時代だったのだ(齋藤清はそのスタイルで1989年アジアカップで優勝したのだから化け物なのだ)。実際、当時は私の後輩の戸田も、シェークなのにいつもオールフォアのフットワークばかり練習していたし、その練習相手の小林(ペン表)にいたっては「オールフォアの相手をショートで振り回す練習をしたい」と言って自分の練習のときまで引き続き戸田にフットワークをさせるという“実戦的な練習”(もちろん自分は動かずに)をして戸田の腰を抜かさせたほどだ。
高度に複雑なスポーツである卓球には、まだまだ未知の技術の隙間が残されている。かつてあまりの威力のために禁止されたフィンガースピンサービスのような強力な技術の開発が待たれる。高弾性アンチで全球スマッシュするとか、卓球台と同じ面積のラケットでのブロック主戦とか、発想の飛躍が必要だ。こう書くと、なんだか誰にでもチャンスがありそうな気がして喜ぶ人がいそうだが、そういうことではない。これはトップクラスの才能が、選手生命をかけてやらなくては意味がないのだ。中国の凄いところは、ペン裏面打法を思いついたことではなく、それをナショナルチームにやらせたことなのだ。劉国梁が登場したとき「あれなら俺もやってたよ」と言う人が私のまわりに続出したが、そんな失うものがない奴らが裏面だろうが馬面だろうが何を試したって当たり前であり、何の意味もない。
今、日本卓球界に問われているのは、水谷の練習時間を削ってウエイトトレーニングをさせてボディビルダーのような体にしてしまうとか、松平(どっちでもいい)に一本足打法をさせるとか、丹羽に長さ50センチのラケットを使わせてみるという賭けができるかどうかなのだ。もちろん取り返しのつかない結果になる可能性は高い。その場合は潔く宮﨑監督に責任をとってもらおう。私はごめんだ。
そのようなことを考えさせられた、齋藤清の100百勝であった。
●卓球界に衝撃を与えた抱腹絶倒の連載コラム「奇天烈逆も〜ション」を編纂した「ようこそ卓球地獄へ」(2014年発刊)からの掲載です
■Profile いとう・じょうた
1964年岩手県生まれ。中学1年からペン表ソフトで卓球を始め、高校時代に男子シングルスで県ベスト8。大学時代、村上力氏に影響を受け裏ソフト+アンチのペン異質反転ロビング型に転向しさんざんな目に遭う。家電メーカーに就職後、ワルドナーにあこがれシェークに転向するが、5年かけてもドライブができず断念し両面表ソフトとなる。このころから情熱が余りはじめ卓球本を収集したり卓球協会や卓球雑誌に手紙を送りつけたりするようになる。卓球本収集がきっかけで2004年から月刊誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。世界選手権の[裏]現地リポート、DVD『ザ・ファイナル』の監督なども担当。中学生の指導をする都合から再びシェーク裏裏となり少しずつドライブができるようになる。2017年末に家電メーカーを退職し卓球普及活動にいそしむ。著書に『ようこそ卓球地獄へ』『卓球天国の扉』がある。仙台市在住。


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