大藤沙月 ライジングスター「ネガティブになっている時間がもったいない」
近藤欽司[夢に向かいて]第三章 2 ─ 00年シドニー五輪/ストレスにより大会後に心臓の手術
2025年夏に急逝した、元女子ナショナルチーム監督の近藤欽司氏の著書『夢に向かいて 〜インターハイとともに歩んだ卓球指導人生40年〜』(2004年1月発行/絶版)。日本女子監督として世界選手権でメダルを獲得。インターハイでは監督として8度の全国優勝を成し遂げた。勝てない時期があり、もがいた。大病をきっかけに、考え方を変えた──。指導に悩む人、試合で勝てない人にオススメの指導書を、王国PLUSで復刊。
Text by
近藤欽司KONDO Kinji

第三章 国際大会で学んだこと
※内容はすべて2003年12月現在
■ 94年広島アジア競技大会/メダル獲得で面目を保つ
94年、広島で行われたアジア競技大会には女子監督として参加しました。地元・日本での開催ということで、何とかメダルを獲得したい大会でした。
日本女子チームは、小山ちれがシングルスだけに出場、団体戦のメンバーは佐藤利香(武田薬品湘南)、遠藤光恵(十六銀行)、岡崎恵子(仙台育英学園高)。遠藤は粒高ラバーを使用するペンホルダーの前陣攻守型、岡崎もシェークでしたが、バック面は粒高ラバーで、独特のしゃがみ込みサービスを駆使する選手でした。三人とも小柄で、他の国々からは「どうして日本はジュニア選手が代表なのですか?」と質問されたこともありました。
団体戦で日本チームは、準々決勝でチャイニーズ・タイペイを破って三位に入りました。個人戦でも小山が喬紅(チャオ・ホン/中国)、陳静(チェン・ジン/チャイニーズ・タイペイ)、鄧亜萍(デン・ヤピン/中国)という世界の強豪を連破して優勝を飾り、大きな話題を呼びました。
この小山の女子シングルスでの優勝と、男女団体での銅メダルの獲得によって、日本選手団も地元開催としての面目を保つことができました。
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