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近藤欽司[夢に向かいて]第三章 3 ─ 01年世界選手権大阪大会で念願のメダルを獲得
2025年夏に急逝した、元女子ナショナルチーム監督の近藤欽司氏の著書『夢に向かいて 〜インターハイとともに歩んだ卓球指導人生40年〜』(2004年1月発行/絶版)。日本女子監督として世界選手権でメダルを獲得。インターハイでは監督として8度の全国優勝を成し遂げた。勝てない時期があり、もがいた。大病をきっかけに、考え方を変えた──。指導に悩む人、試合で勝てない人にオススメの指導書を、王国PLUSで復刊。
Text by
近藤欽司KONDOU Kinji

第三章 国際大会で学んだこと
※内容はすべて2003年12月現在
■ 01年世界選手権大阪大会で念願のメダルを獲得
00年2月にクアラルンプール大会が終わってから、01年4月の大阪大会まで、約一年の準備期間がありました。私は最低でも団体で銅メダルを獲るだけの選手の強化、選考をしなければならないと思っていました。スタッフは私の他に、日本リーグから村上恭和氏(日本生命)・笠原一也氏(松下電器)、日学連から西村卓二氏(富士短大/現東京富士大)・西飯徳康氏(愛知工業大)、高体連から大嶋雅盛氏(四天王寺高)・萩原健一郎氏(山陽女子高)というように、実業団・大学・高校とそれぞれのカテゴリーから二名ずつ、計六名のコーチが選出されました。
監督として、最初に直面した問題は、ナショナルチームの合宿を実施しても、メンバーが全員揃わなかったことです。そこで私はなるべくナショナルチームの合宿は母体より良い環境を作ること。つまり練習相手の質を高めたのです。
そして、候補選手同士の練習を最低限に抑え、大学生や日本に来ている中国からの留学生などをトレーナーとして合宿に迎え、その選手たちとの練習を多くしました。大阪大会に近い時期の合宿では、日本とメダルを争う国の選手と同じような用具・戦型の選手を合宿に呼ぶなど、できる限りレベルの高いトレーナーを集める努力をしました。なかなか大変なことでした。
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